(以下、公式サイトより引用)
18歳のすずさんに、突然縁談がもちあがる。
良いも悪いも決められないまま話は進み、1944(昭和19)年2月、すずさんは呉へとお嫁にやって来る。呉はそのころ日本海軍の一大拠点で、軍港の街として栄え、世界最大の戦艦と謳われた「大和」も呉を母港としていた。
見知らぬ土地で、海軍勤務の文官・北條周作の妻となったすずさんの日々が始まった。
夫の両親は優しく、義姉の径子は厳しく、その娘の晴美はおっとりしてかわいらしい。隣保班の知多さん、刈谷さん、堂本さんも個性的だ。
配給物資がだんだん減っていく中でも、すずさんは工夫を凝らして食卓をにぎわせ、衣服を作り直し、時には好きな絵を描き、毎日のくらしを積み重ねていく。
ある時、道に迷い遊郭に迷い込んだすずさんは、遊女のリンと出会う。
またある時は、重巡洋艦「青葉」の水兵となった小学校の同級生・水原哲が現れ、すずさんも夫の周作も複雑な想いを抱える。
1945(昭和20)年3月。呉は、空を埋め尽くすほどの数の艦載機による空襲にさらされ、すずさんが大切にしていたものが失われていく。それでも毎日は続く。
そして、昭和20年の夏がやってくる――。
0.前置き
どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士でピアサポーターのぬっぺふです。
教員の皆さま、8月6日、9日、15日と印象深い日が続く季節となってきましたね。
当方、熱血教員だったゆえ平和教育についても熱血でした。
まあ、某会議の方々等からするとおそらく反日と言われる類だったのかもしれませんが、戦争は記憶から失われた瞬間に次の戦争の準備となりますので…。
さて、そんなこんなで倍率は落ちても日本のインテリゲンツィアである先生方におかれましては、どうしても「過去の戦争についてどう捉えるか」「それをどう伝えるか」という点が難しいテーマとして降りかかってくるのではないかと思うのです。
そこで手っ取り早い方法としていわゆる「戦争映画」を見せて感想文を書く…といった手段が用いられることもあるのではないでしょうか。
今回メインの題材として扱おうと思っている映画『このせかいの片隅に』はそういう意味でとてもよく出来た映画です。学校現場で戦争について考えるときに、現時点でこれを超える映画はないと思います。ですが、一方で使い方を間違えると「戦争をおしすすめる」方向にも見えてしまうのがこの映画の注意点です。
というわけで、今回はいつもとテーマが違うのですが、『このせかいの片隅に』を軸に教員が戦争について最低限しっておくべき目線についても伝えていきたいと思います。
…自虐史観よくない、とか当時の日本はベストを尽くした、とか色々な意見があることはわかっています。ですが、まあこんな捉え方もあるのねというくらいでご一読いただけるとありがたいです。
では、いってみましょう。
1.戦争を人聞きできなかった教員が増えていく時代
時代は早いものでして、2000年生まれの教員が職場に現れる時代とあいなってきました。彼らの祖父母といえば大体が戦後生まれか戦中に幼かった世代であり、そういう意味で彼らは戦争についての「体験談」を直接きくことが出来なかった世代の入り口に属しているといえます。
私は幸い祖父母が戦争体験者でして、当時の生の話をきくことができました。
父型の祖母が魚雷の横で眠りながらインドネシアへ渡り研究者として従軍した話。
祖父のアメリカ軍上陸直前まで沖縄に配属、ぎりぎりで本土に戻され助かった話。
母型の祖父の満州からロシアにむけた北部の戦線の中で、もはや動かないトラックを国の物資だからと捨てるわけにもいかず押して歩いた話、そして部下が戦闘により死亡し、自国に遺骨を持ち帰るために祖父がその手首を切断した話など。
…父方の祖父はその後、戦争への怒りから反戦運動と共産主義を理想に掲げました。
その結果1950年代のレッドパージ(俗に言う赤狩り。冷戦中のロシアと繋がる可能性のある共産主義者は通報される時代だったのです)によって父方の家族は4畳一間で5人で生活しながら各地を転々とし、その日その日を生き抜くことになったそうで、酒が入るとよく「戦争はみじめなものなんだよ」と語ってくれたのを覚えています。
※なお、父方の家は他にも叔父さんに父の姉がレイプされていたり、祖父が一家心中しようと父とその兄妹の手を引いて夜の町をさまよったりとまあ昭和の闇を感じさせてくれるエピソードが満載でした。
一方、母方の祖父は普段はひょうひょうとしており、戦争時のこともあまり語らないのですが、とても印象に残っていたことがありました。それは私が高校生くらいの頃。戦前の日本の行いについて批判的な意見を言っていた時です。祖父は黙って聞いていましたが、一言「でもな。戦争は人を狂わせるんだよ」とぼそりとつぶやいたことです。
これは当時単純に戦前の日本は悪かったから戦争に向かい、他国においてひどい行為も沢山行った…という自分の認識と少し異なるものでした。今思えば、そのあたりから私自身の戦争に関するスタンスも変わっていったように感じます。
皆一生懸命生きようとしていたはずなのに、なぜ勝ち目のない戦争に向かっていってしまったのか?なぜ普段いい人であったはずの兵隊達が戦場において残虐な行為を行わなければならなかったのか?
それまで単純に「悪い人が政治をにぎり、悪い人が戦場で悪いことをした」と考えていた私が「なぜそうなってしまったのか?」に拘り出したきっかけでした。
そして、今回ご紹介する『このせかいの片隅に』はそのなぜ?を考えさせてくれる作品なのです。
2.『このせかいの片隅に』が学校で見せる映画として優れている点について
さて、『このせかいの片隅に』には学校で見せる上でとても良い工夫が成された作品です。
①いわゆる反戦映画として描かれていない
学校で見せる戦争に関する映画といえば、過去ならばはだしのゲンが有名だったかと思われます。あれもまぎれもない名作なのですが、今の生徒達に響くかというと難しい。
「どうせ戦争反対、戦前日本は悪かったってくるんでしょ?」とガードしている生徒に対し、あまりにど直球すぎるのです。一方でそうしたガードが出来上がる前の段階で見せると今度は「まだ思想の固まらない子どもに偏った映画を見せるな!」という保護者からのクレームがきかねない。
※事実、学級文庫にはだしのゲンを置けない時代になってしまいましたし…
歴史をかじった上で言わせてもらえば、はだしのゲンの後半はたしかに意図的な政治主張も増えるとはいえ基本は戦争によって破壊された日常を力強く取り戻そうとする少年達の話としてみることができます。
少なくとも映画になっている前半部においては大きく偏った要素はなく、実際にあったことの積み重ねで作られている映画です。
ですが、すでに「反戦」という色がついてしまっている映画はもはや学校では見せにくい時代であるということは認めざるを得ないでしょう。
…その点、『このせかいの片隅に』は徹底して戦闘描写が描かれません。戦況は悪くなっていくのですが、あくまで「ある家族の戦中の日常」という切り口で「主人公の物語」として作られた映画だからこそ、戦争についての色がついていないのです。この映画は戦争についてふれた「戦争映画」ではあるものの「反戦映画」ではない。これは大きなポイントです。
②視覚的なショックでトラウマを与えようというシーンがほぼない
唯一最後の最後にややショッキングなシーンはありますが、それ以外には戦闘シーンすら描かれない。これは戦争映画としては珍しい。
※似たような描き方をしている作品ではジブリの『蛍の墓』という名作もありますが、こちらはどちらかというと「戦争の悲惨さ」を説いているというより「せいたはなぜ死ななくてはならなかったのか」が主軸となっています。より俯瞰した形で戦争を見ていくのであれば『このせかいの片隅に』に軍配があがるかと。
私自身の本音を言えばショッキングなシーンも大切かと思うのです。外国が太平洋戦争について描いたドラマ「パシフィック」では額から上を吹き飛ばされた敵兵(つまり日本兵)の死体に対して、サブ主人公とも言えるキャラクターがうつろな瞳で小石を玉入れのように頭蓋に投げいれるというシーンがあります。これも戦争の本質です。
ですが、こうしたショッキングなシーンだけでは、幼少期は「戦争は怖いからしちゃだめ」と思ったとしても高校生くらいになってくれば「戦争はグロイものなのは当たり前だろうが」とむしろ幼少期に与えられたトラウマに対して反発するように戦争の悲惨さを肯定するようになってしまったりしかねません。
『このせかいの片隅に』は悲惨さを視覚的な点よりも登場人物のやりとりの中で感じさせてくれるため、そうした過度なトラウマを形成することもなく、また反発されることも無いと言えます。うーん。隙がない。
③単純に映画として面白い
学校で生徒に映画を見せるのであれば、絶対にはずせない要素でしょう。『この世界の片隅に』は映画としては地味なのですが、抜群に面白いのです。ちょっとした日常や新婚夫婦の初々しいやりとり、時には「おおっと、このまま浮気してしまうんか!?」といったドキドキするシーンまでバラエティにとんでいます。そしてちいさな日常がしっかりと描かれ積み重なることによって、最後になんともいえない感動が残るのです。
一方で、学校で見せる上での欠点もいくつか生じます。
①小学生には退屈
小学生くらいの発達段階の高校生にも、退屈になりかねません。地味だからです。また、完全版にあたる「このせかいのもっと片隅に」の場合は男女の浮気であったり夜の営み(描写は本当に軽いものの)が描かれるため、そういった意味では「このせかいの片隅に」の方がとっつきやすいかもしれません。(時間も短い)
②作中で約13年が経過するのだが、ある程度年表が入っていないと真の感動を味わえない
作中では暗く描きはしないものの、確実に戦争が進行していく様子が描かれます。ですが、それがあくまで主人公の身の回りで起きたことからしか語られないため、ある程度の既得知識がないとさっぱりわからなかったりします。
とくに昭和20年8月6日に広島原爆が落ちるということを知ってみるのとみないのでは味わいかたが大きく変わってしまう。そういう意味で、教員側も生徒側もある程度事前学習をしたうえで見る必要がでてきます。
③見終わったあと、テーマを見誤る可能性がある
一番怖い点です。この映画を見て何を思うかは人それぞれ。ですが、もっとも行ってはいけないところに意外と解釈されがちです。これについては最後に説明します。
いかがでしょうか。いくつか難点もあるものの、なかなか見せやすそうな映画と思いませんか。では続いて、先生もしっておくべき最低限の戦争についての視点について事前学習のおともに語ってみたいと思います。もう知ってるよ、という方はどうぞ4.まで飛ばしてください。
3.映画を見せるためにも知っておいてほしい戦前・戦中史
まず、戦争については社会の先生が教えればいいという意見もあるかと思いますが、ようく考えるとそれは間違っているのです。
なぜなら、学校においては「すべての教員、すべての機会において人権教育が行われるべき」となっているためです。そして人権が最も脅かされるのが「戦争」である以上、本来はあらゆる教員が戦争についても語ることができる土台をもっているべきなのだろうと考えられます。
せっかくなので一緒に見てみましょう。
さて、物語は1933年から始まります。この時代に起きた大事件といえば、日本の「国際連盟脱退」です。
1929年からはじまった世界的な大不況である世界恐慌(まあ日本の場合はその前から1923年の関東大震災、その後の震災恐慌という不景気にあえいでいたのですが・・・)、日本はその脱出口を日本の5倍の面積をもち資源にもあふれている「満州」(現中国東北部からロシア沿海部)に見出そうとしていました。
※というのも、1929年の世界恐慌後、それまでは「第一次世界大戦の反省だ!戦争はしない!国連つくって平和にいこうぜ」と言っていた欧米諸国が、ブロック外交という裏技で景気を維持しようとしたためです。
これはいわば自国と植民地(イメージでいうなら自分の仲間内グループ)だけで必要なものを交換しあうことによって、チームの外にはお金がでていかないようにする「植民地をもったものだけに許される自給自足戦略」のようなものでして。
当時大きな植民地を保有していなかった日本はこのブロック外交ができず、今までの商売相手にはつまはじきにされ、苦境に落とされてしまいます。
不景気に対し明確な手段がとれない政治家たち。街にあふれる失業者。それに対して不満を募らせる軍人達。最終的にはこのパワーバランスは軍部指導のもと1929年に行われた張作霖爆殺事件(用済みとなった中国とのパイプ役を現地の軍部が独断で列車ごとふっとばし、敵のせいにしようとしてしまいます)、1931年におきた柳条湖事件(俗にいう満州事変(同様に日本が管理していた満州鉄道を爆発させられた!と言い張り、自作自演で戦争を開始、あれよあれよという間に満州を独立させ日本の傀儡政権にしてしまいます)によって崩されていきました。
そして、その軍部と政治家のパワーバランスを大きく崩壊させたものが1932年の5.15事件です。
これは、軍部が頑張って作った満州国を認めようとしない時の首相犬養毅を、一部の将校たちが暗殺したという事件で、この事件を機に軍人が政治に大きく関与するようになったと言われています。
※なお、5.15事件を象徴するやりとりとして、犬養が言った「話せばわかる」に対し将校側が言った「問答無用」は時代の流れを象徴していたように思えます。
事実この事件をきっかけに本来「話して解決する」が基本であった政治は「問答無用」で押し通る、やったもの勝ちなものへと変わっていくのです。
1933年の国際連盟脱退は柳条湖事件について国際連盟からイチャモンをつけられたことから起きるのですが、まさに「問答無用」を表していると言えます。
…なお、国際連盟を脱退する発言をした松岡洋右氏は戦後毎日皇居に土下座をしていたと息子が語っています。
なにはともあれ、映画のはじまりはそうした日本の軍国主義化が一般人には見えにくいところで進んで来ていた時代からはじまるのです。
※1933年段階では上記したような政府に都合の悪い事件はうまく伏されていましたし、庶民はむしろ明確な動きをみせない政治家よりも軍部の行動力を評価していた面があります。ちょうど不景気に明確な解答をだせず政治家が右往左往しているところで「改革」をうたう若者があらわれ実力で政治を変えていっている状況と考えればイメージがわくでしょうか。
…実は、このころの日本は政治的には結構オープンだった面もあるのです。なにせ当時もっとも支持されていたのは「天皇機関説」というもので、「天皇はあくまで日本という国の一機関であり、主権者ではないよ」という考え方です。人々の心は実は1935年頃まではこうした常識的な感覚をちゃんともっていたし、戦争についても完全礼賛という状況ではない。
そのことは日本の軍国主義化を決定づけたといわれる1936年の2.26事件以降の作中描写をみてもわかるかと思います。あくまで戦争は対岸の火事であり、その戦火が中国本土に及んでも自国が他国を侵略しているというリアルさは見えてきません。
…状況がかわってくるのは1938年。当初日本は中国との間の戦争を短期間でおわらせ、利益を得るつもりでした。ですが中国は点と線で支配するにはあまりにも広大すぎたのです。戦争は長引き、日本は「国家総動員法」という総力戦体制へと進んでいくことになります。
※日本は実は「親日派の汪兆銘という政治家」を中国の代表とし彼を通じて中国を抑えようという動きもとっていました。そのために「汪兆銘側じゃない中国の自称政府とはお話しせんからね!」とまで言ってしまっています。ですが、彼は中国国民の心をつかむことはできず、結果「話さないよ!」と言ってしまったこともあり戦争は泥沼に陥っていきます。
さて、戦争を続けるには資源が必要です。ところが困ったことになりました。日本が力をつけ、自身の領土を脅かすことを恐れたアメリカが、日本との貿易を中止したのです。
当時日本が戦争をするための資源の多くはアメリカからもたらされていました。結果、戦争を継続するための資源が日本になくなってくる。
どうする?と国内は揺れました。
…戦争というのは難しいもので、始めると簡単には止められないのです。なぜなら中途で戦争をやめるということはそれまでに支払ったコストの回収を諦めるということになるからです。
そんなこんなで右往左往していた日本の耳に嬉しいニュースが入ってきます。当時の日本の数少ない友人であるドイツが、フランスを倒したというのです。
当時フランスは東南アジアに広大な領地をもっていました。そこではオイルもとれればゴムもとれる。中国での戦争を継続するためにはアメリカやイギリスににらまれる危険性があったとしても、このフランスの領地を頂いてしまうしか他にない。
こうして、日本は「中国での戦争」を維持するために、さらに戦端を拡大してしまうことになるのです。これが1940年9月に行われた北部仏印進軍という事件でした。
当然、アメリカやイギリスは怒る怒る。ちょっと日本が足をのばせばそこにはアメリカの大事にしているフィリピンや、イギリスの生命線であるインドがあるわけです。
さて、ではこれに対して日本はどのような思想を持っていたかというと…
何も考えていませんでした。政府は「アメリカとは戦争したくないな」と思っていたので外交を続け、なんとか戦争回避の道を探っていました。ですが結局軍部がフランスの領土のさらに南へ軍をすすめたことが決定打となり、アメリカとの衝突は避けられない状態までいってしまったのです。
日本政府は開戦も停戦もできずにいました。終戦の責任も開戦の責任も負いたくなかったためです。先述したように戦争をやめるとは「今まで払ったコストの回収を諦めること」です。また、戦争の犠牲となった兵士の遺族からの負の感情も引き受けることになりかねません。一方で、戦争を始めると言うことは「勝てなかったときの責任を負う」ということです。そして、当時の日本がアメリカに勝てる可能性は限りなく低かった。結果、政府は結論を下せずにいたのです。
当時、天才といわれた山本五十六という軍人がいいました。「最初の半年や1年は暴れてご覧に入れる。しかし、2年、3年となれば全く確信は持てない」と。大分柔らかく言ってますが勝てるとは言ってません。
さて、そうこう言っている内に、日本の残りの石油の量が約2年分程度になってきました。誰が首相になっても責任ある決断をできない状況の中、昭和天皇は側近の木戸の勧めもうけある男を呼びます。それが、有名な東条英機でした。
…彼が選ばれたのはアメリカとの開戦を避けるためでした。彼自身もそのつもりでした。ですが、彼の元にいる軍部の意見は違いましたし、そこにアメリカから決定的な文書が送られてきてしまいます。
それが、「ハル・ノート」と呼ばれる通告です。
①他の国の領土とったり、権利うばっちゃだめよ
②他の国の内政にちょっかいだしちゃだめよ
③商売の機会や待遇は平等にせんとだめよ
④戦争せず、平和に解決するため国際調停に従いなさいよ
の4原則からなり、とくに今回の交渉で日本が譲歩する条件として以下の4つもあげました。
①上記の4つは無条件で承認してね。
②東南アジアのフランス領と中国からはすぐに撤退してね。
③なんか傀儡政権(=汪兆銘)を中国においてるみたいだけど、俺達の仲間の蒋介石
チームだけを中国として認めてね
④悪い友達とはつきあわないでね(日独伊三国同盟の解消)
といった内容です。
これが日本を一気に開戦へと進ませた。なぜなら上記の文章は事実上今までに支払ったコストは未回収のまま、手に入れた領地まで手放し一方的に手をひけというものだからです。
結果、東條はともかくとして、軍部はいきりたつ。「どうせ失うなら万が一にもかけてハイリスクハイリターンを目指すのだ!」という主張が強まる。
結局天皇も開戦には決意を固めてしまったようで、東條英機は誰も責任をとりたくなくてやらなかった開戦か否かという決断をせざるを得なくなりました。こうして1941年12月8日。真珠湾爆撃によって太平洋戦争が開始するのです。
東條としてもやるからには徹底しなくてはなりません。勝つために使えるものは何でも使いました。メディアをフル活用し、プロパガンダをながし国民の思想を戦争に染めていく。
実は太平洋戦争開戦時の新聞、第一面は真珠湾爆撃ではないのです。一面を飾っていたのは当時有名だった芸能人の結婚でした。
以上からもわかるように、日本は大東亜共栄圏という崇高な理念をもって戦争に向かったわけではないのです。そうした理想を掲げていた軍人もいたのでしょうが、国として見た場合、国内の意見も統一できず、ずるずると責任者不在のまま「そうせざるを得ない状況に向かってしまった」結果仕方なく開戦したというのが実情です。
さて、長い歴史講義になりましたが再度目を作中の年表に移しましょう。
物語の主軸となるのは既に日本が各地で負け始めている1943年、主人公の嫁入り以後となっています。無論、一般人には負けていることは伏されていたので、主人公達は「いつかおわる」とその日その日を一生懸命生きていきます。
ですが、戦況はますます悪化し、次第に主人公達の日常にも戦争の影が強くなっていきます。庭に防空壕を掘る、憲兵にスパイと誤解され捕まる、幼馴染が戦地に赴く前に最後の挨拶とばかりに主人公を尋ねてくる、兄が戦死する…
あくまで重く書かれていないのですが確実に戦況が生活を破壊しているのです。
そしていよいよ、主人公の実家である広島に原子爆弾が落とされる8月6日がやってきます。この作品はそれすらもあっさりと描きます。実際には主人公の両親は原爆投下によって死亡しており、生き残った妹ですら放射線にやられ長くはなさそうな描写がなされている。
それにも関わらず、あくまで描写はあっさりとしているのです。
さて、歴史の話をもう少しだけ続けさせてください。8月15日、主人公は作中初めて感情を大爆発させます。お分かりのように、終戦を迎えたのです。
※実は世界的にみて終戦は9月2日です。日本がミズーリ号の上で降伏文書に調印したのがその日だからです。ではなぜ8月15日を日本では終戦と呼ぶのでしょうか。ここにも天皇の権威を守るための工夫、そしてあくまで終戦とすることで「敗戦」した日ではないというトリックも含まれていたりします。
以上が作中で主人公が生きた時代の大きな流れです。では最後に、この映画が大きく誤解されてしまいがちな点について触れておきたいと思います。
4.戦争の中明るく日常を生きる一般人のたくましさを描いたものではない
この映画が公開されたとき、私はまだ現役教員だったこともありレイトショーで見に行きました。帰りの車の中この映画の何がすごかったのか、消化しきれぬ思いを噛み砕きながら帰ったのを覚えています。
その後、SNSなどを通じてこの映画について友人とやりとりをしたのですが、その際に「?」が浮かんだのです。
彼は
「大変な状況の中でも前向きにいきている普通の人達のすごさを感じさせられました!」と述べていた。…そんな映画だったっけ?
その後、この映画はロングランとなり話題となっていったわけですが、どこでもつきまとうのが「戦争という大変な状況でも当たり前の日々を大切にした人々のすばらしさ」に話がもってかれてしまうのです。
しまいにはNHKが動いて「全国のすずさん」と銘打って戦中のほんわかエピソードを集め出す始末。
そうじゃないだろう、と。
この映画は実は原作漫画をそのまま描くのではなく意図的にいくつかのシーンが削られています。たとえば上にのせたシーン。戦争が終わると同時に、それまで無理やり日本人として働かされていた在日韓国人の家から国旗があがるという場面です。
※これについては完全版ともいえる「このせかいのもっと片隅に」では補完されています。
主人公はそれを見て、自分達が思っていた正義の日本像は決して正しくはなく、日本を焼いた国と同じことを自分達もしており、加担していたのだという事実に気が付きます。
この映画のテーマを探るに重要なセリフがいくつかあります。
1つは空襲が激化してきた時に主人公の義母がつぶやく言葉です。
「おおごとだと思えたころがなつかしいわ」
そしてもう1つが、玉音放送を聞いた主人公が、
「そんなの覚悟の上じゃないんかね!最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね!」
と叫ぶシーン。
そして最後が上にのせた画像に書かれている、
「知らんまま死にたかったなあ」
です。
…映画をみればわかるように、この映画に悪人は一人も出てきません。でもその悪人ではない人々ですら、「戦争という日常」にのまれていくのです。
本当はおかしいと思いながらも、辛い気持ちをかかえていても、それでも皆もガマンしていることだからと我慢を続ける内に、非日常だったはずの戦争が「日常化」していく。
たしかに庶民の強さ、明るさを描いた作品にも見えるでしょう。でも、戦争が終わった瞬間、主人公も義理の姉も、泣き崩れるのです。
もし、この映画を見て「大変な状況でも前向きに明るく生きていくのが大事なんだ」と捉えるのであれば、私はその感覚は次の戦争に繋がっていくと思います。なぜなら、主人公達は前向きに明るく生きていたのではなく、戦争という本来なら避けたい非日常が日常にすり替わってしまい、色々なものが麻痺していたというだけなのです。それを見て「どんなときでも明るく生きようと思えば生きられるってことだね!」と捉えてしまうなら、主人公達を襲った戦争という非日常を受け入れる前提の姿勢となってしまいます。
この映画は「人のいい家族が徐々に戦争によって傷つけられていっているにも関わらず、それを日常として受け止めてしまっている」という異常さ、それこそが戦争のもっている恐ろしさなのだということがポイントなのです。
祖父が言った、「戦争は人を狂わせる」という言葉は何も戦場に限ったことではないのです。戦争を支えるその他大勢の国民含め、「異常が正常」に変わっていくということです。
…異常であることが常態化すること。それを人は「狂う」というのです。
5.最後に
世の中には、つねに流行があります。その時代その時代で平和や戦争についての価値観も大きく変わる。ですが、一方で変わらぬものもあります。
教育基本法は改正によって大分元のものとは目的が変わってしまいましたが、それでも前文には、
「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるととも に、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献すること を願うものである」
とされており、目的についても第一条にて
「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備 えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われ なければならない」
と述べています。
…常識的に読めば、「戦争を民主的に回避できるような国民形成」が求められていると言えるでしょう。
だから部活動もICTもアクティブラーニングもいいけれど、まずこうした平和や人権、戦争についてちゃんと生徒に伝えていけるくらいの学は必要なのです…とおせっかいなことを伝えて、今回は了とします。
私自身は自身の起こした不祥事ゆえ、もう教育にかかわることはできません。でも今教壇に立っている方々は今後も生徒に関わり続けます。それこそ、戦前のような時代がやってくる前にも。やってきても。そのあとも。
日本が大正デモクラシーと呼ばれた時代から全体主義とよばれる体制へ移行するまでにかかった時間は短く見積もって7年、長く見積もっても15年と言われています。
この数値を見て皆さんの教え子が、戦争に巻き込まれる可能性は全くないといえますか。
…私は今の状況をみていると「大丈夫」と自信をもって言えません。
いつか今の非日常が日常と化し、「昔がなつかしい」となる前に。言えること、伝えられることは伝えておきましょう。
というわけで、自分としては中道で語ってるつもりなのですが、人によっては偏って見えたかもしれませんね。なにせレッドパージをうけた男の孫なので何分お許しいただければありがたいです。
では、次はまた不祥事に関係してくるようなテーマでお会いしまよう。
またいずれ!
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