top of page

「不祥事の見方を変える」2 依存症の視点から 



※この記事は自助グループ「不祥事教員&予備軍のための座談会」において、当事者研究発表としてまとめたものになります。不祥事教員や予備軍ではない方にとって「他責的」であったり「不祥事を自己正当化」する内容に見えてしまう可能性もありますが、最後まで読んだ上で判断して頂ければ幸いです。


 どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士のぬっぺふです。

 不祥事の背景に各種「依存症」が存在するのではという視点は、最近は一般的になってきました。実際、教育委員会の作成する資料などでも今まで一般的だった「物質依存(=アルコールや覚せい剤といった特定の物質に対する依存)」以外に、「行為依存(=万引きや性的行動、ゲームといった特定の行動に対する依存)」も取り扱われ始めています。

 

 しかし、「依存症」というカテゴリーに入れることで分かった気になってしまう人もいます。結果、本質を見誤る人も。

 ということで、今回は「依存症」という視点から不祥事を考える過程で、不祥事や問題行動の捉え方を変えていきましょう。



 


 

1.依存症とは

 

 ざっくり言えば、ある特定の刺激を脳が常に求めてしまい結果生活そのものが崩れていく症状です。なぜそうなってしまうのかと言えば、「その刺激が生活の辛さを忘れさせてくれる魔法だから」


 …人間の脳は何か達成感を感じたときにドーパミンと呼ばれる脳内麻薬を出します。この刺激をうけ心は晴れやかに、自分への信頼感も爆上がり。そして我々は再びその感覚を味わうために目の前の趣味や仕事に努力します。

 ところが、世の中には簡単にこのドーパミンを出してくれたり、普通の人生ではそうそう感じられない強度のドーパミンを出してくれる、そんな物質や行動が存在します。


 アルコール、タバコ、ゲーム、ポルノ…これらを活用してドーパミンを出すのはある意味とても楽なのです。通常であれば努力し、時間をかけ、不安や責任を抱えながらやっとこさ手に入るはずのモノを、短期的にはノーリスクかつ一瞬で手に入れることが可能。まさしく魔法です。

 しかし、その魔法には大きな問題もあります。何度も使ううちに効果が出にくくなったり、別の方法でのドーパミン放出が阻害されるようになったりするため、気付けば依存しているモノ以外のドーパミン放出方法から遠ざかりだします。結果、本来であれば「酒、スポーツ、ゲーム、ポルノ、友人、仕事、家族」といった自分を支える柱が、気付けば「依存対象」以外無くなってしまったり。すると、降り積もる人生の辛さを乗り切るためにどんどん依存対象に系統し、深みにはまっていってしまう。


…深みから抜けるには、どこかでそのサイクルを変えていかなくてはなりません。


 


 

2.依存症の特徴6選

 

 さて、依存症については以下の6つが大きな特徴と言われています。

 

①「コントロールがききません」

コントロールの消失が依存症の中心症状です。意思の力でどうこうなるものでは

ありません。当然、人格の問題でもありません。

 

②「脳の病気です」

以下のような2つのサイクルを通じ、脳の中に特定の回路が強化される結果依存

症は強まります。いわば脳内にバグが出来てしまっているのであり、やはり貴方

の意思や人格に問題があるわけではありません。



ア 薬物使用 ⇒ 報酬系活性化 ⇒ 快感、多幸感 

  ⇒ 条件付けによって条件刺激に反応 ⇒ 依存症の陽性強化


※要は、アルコール依存に関して言うならば酒のCMを見ただけで飲みたくなる…という状態になっていくということです。


イ 薬物使用 ⇒ 脳のドーパミンへの反応性低下 

    ⇒ 快感を感じにくくなる(=報酬欠乏症)

⇒ 依存物質や行為によってドーパミンを噴出。うつや意欲低下を改善

⇒ 依存症の陰性強化


※こちらは、他の楽しかったことが楽しくなくなり、結果よけい依存が強まっていく、ということです。

 

 

③「条件反射の病気でもあります」

 本来であれば繋がらない条件と体の反射が接続することにより、最終的には依存し

ているものを見なくても欲求が雪崩のように起き出します。

 

※  ある性依存患者では夜一人で歩いている時にカーテンがひらめいたのを見ただけでレイプがしたくなる…という人もいました。本来であればもっと奥にあるはずの欲求を引き起こすスイッチが、どんどん手前に来てしまうのです。

 

④「欲が爆上げされる病気です」

 依存症になった人の欲求は非常に強く、意思ではコントロールできません。

 意思が弱いからなるわけではないです。

 

⑤「慢性かつ進行性のある死に至る病です」

 ・一度依存症になると治りません。うまくつきあうしかない。(慢性)

※ 脳に一度できた回路は消すことは出来ないのです。ですが、使わないこと&別回路を作っていくことで、使用頻度を落としていくようにすると、限りなく反応を悪くする(=欲求を小さくしていく)ことはできます。


・放っておくとどんどん悪くなる。(進行性)

※ 水が一度流れたあとを何回もなぞればより深い溝となるように、放っておけばその脳回路は何度もなぞられてしまい、薄めることも難しくなっていきます。


・最後には死に至る。アルコール依存症の平均寿命は52歳。(致死性)

※ アルコールの場合は身体にかける負担も大きいのですが、それだけではなく社会的な死、再起の難しさなどから他の気分障害などを併発、自死へ繋がるなどのケースも多いです。後者は行為依存でも起きます。

 

⑥「誤解されがちですが、生活習慣病です」

 単に飲まなきゃいい、やらなきゃいいというものではないです。その依存は生活全

体に根がはっており、本気で治すためには生活そのものを改めないといけません。

 大事なのは依存物、あるいは依存行為に頼らずにすんでいるかどうかだけではない

のです。結果として依存断ちできていてもいやいやいやっているなら変わらない。

依存しないでもすむような生活を作りかえていくことがポイントとなります。

 


 

3.不祥事教員ではない人にも潜む依存症的体質




 

 さて、本題はここからです。今まで依存症について確認してきました。自身の不祥事や問題行動が「依存症」あるいは「依存症的な流れ」に沿っていた方にとっては既得の知識だったかもしれません。ですが、今回はその知識を自分ではなく外に向けてみて欲しいのです。そう、貴方の同僚(あるいは元同僚)達に。


 …私は、ビジネスとして完全に割り切って仕事をしている教員以外の多くに、実は「依存症的な体質」が存在していると思っています。


 振り返ってみましょう。依存症とは特定の行為や物質に頼らないと人生が回らず、結果生活が崩れていくものと捉えてきました。ではその特定の行為に「部活」が入っている人はいかがでしょうか。「授業」、「生徒指導」では?

 一見、熱心な先生となるでしょう。でも、近年問題になっているように「部活」に人生をかけたがため家庭が崩壊している教員は少なくありません。授業や生徒指導にしても、時代とともに求められるスタイルは変わってきます。

 自分が積み上げてきたスタイルが通用しなくなった時、それ以外に自分を支えるものを作って来ていなかったら。それはアイデンティティの危機であり、ぐらついた精神的不安は矛となって自分や指導対象に襲い掛かるかもしれません。つまる所、「仕事」のみで自分を支えている人は危険なのです。


 より危険なタイプもいます。私の名づけですが「権力行使依存」というべきタイプです。

例えば生徒指導、進路指導、組織改革等々。指導や改革とは言い方を変えれば他者を自分の思い通りに動かすこととも言えます。教員であれば経験したことがあるかと思いますが、これは大きな快感です。

 ところが、中には「権力を行使(=指導や改革)し何かを成すこと」ではなく、「権力を行使すること」自体に達成感や快感を見出してしまう人々が紛れています。彼らにとって指導そのものが快感です。結果、大義なく(あるいは大義は後付け)生徒や同僚を指導し、批判する。望んだ反応が返ってこないと、「依存対象」を傷つけられる不安からより頑なに指導をしはじめる…


 こうした人々は自分が「依存症」的になっていることに気付いていません。先に挙げた6つの特徴をそうした同僚(あるいは元同僚)に当てはめてみてください。一見自信満々に教員をやっているように見えますが、実は脆弱な柱によりかかって病的な状態に近づいているのに気付くかもしれません。しかもそうした人々は無自覚に多くの人を攻撃し傷つけていることもしばしば。



 

4.もし問題行動が起きていなかったら…

 

 3.で何が言いたかったのか。それは現役教員への攻撃というわけではありません。

 自分の仕事のみに自身の存在意義を見出すのは依存症と変わらず、長期的に見れば多くの他者を傷つけるかもしれない在り方である、ということがまず1つ。そしてもう1つは、「依存症に陥りやすいタイプの人間が不祥事を起こさず現場に適応したとしても、3.で触れたようなタイプになっていた可能性はあったのではないか」ということです。


 現在、パワハラや部活動、生徒への指導を巡る問題が教育現場にはあふれています。これは時代の変化に対応するだけの余裕が現場にないという環境的な原因の他に、3.で挙げたような人々のやり方がそぐわなくなってきているということも示しているように感じます。


 彼らは環境要因や個別の生徒に問題は見いだせても、自身の在り方を疑問視することが出来ません。なぜなら自身の「依存症」的な性質に気付いていないから。

 一方、自身の不祥事や問題行動を通じて「依存症」的な性質に気付くことが出来た方は、ここから別の道を探ることができます。「仕事」のみに依存しない道。一度作ってしまった「依存」から遠ざかる道。そして「無自覚に他者も自分も傷つけない」道。


 …依存症には「底つき」と呼ばれる状況があり、そこに至らないと次に進めないという方もいます。不祥事による懲戒免職はある種強烈な「底つき」です。ですが、だからこそ生き方を見直すチャンスでもある。覆水は盆に還りません。ですがこぼれた水は新たな芽吹きの糧となることはあります。こぼれた水を無駄と捉えるか、こぼれてしまった水に意味を見出すか。それが決まるのはここからです。

 


 

5.最後に

 

 以上、「依存症」と不祥事について考察してみました。なお、最もやっていけない悪手は「依存症」を免罪符と捉えてしまうことです。同じくらいやってはいけない悪手は「依存症」を自分自身と捉えてしまうことです。


 「依存症」はただのその人を構成する要素でしかありません。致死性の慢性疾患を持ちながらも自分らしく生きる道を進んでいる方がたくさんいるように、「依存症」と「自己実現」は両立します。もし自身が「依存症」であったりそれに近い状態と感じるのであれば、それを否定して切り捨てないようにしてください。むしろ大事に包み込んで「なぜそこに行きついたのか」を探ってみてください。


 「依存症」は紛れもなくその人の一部であり、ある意味で言えばその人の人生の苦痛を最も多く受け止めてきてくれた部位でもあるわけです。その事実を受け入れ、しっかり患部を見つめることから問題解決の糸口が見えてきます。

 そしてそうした自分だけでは見えない患部を安心して見せることができるのが当座談会をはじめとする自助グループです。さあ、お互いの患部を(見せられる範囲でいいので)さらしていきましょう。思いもよらぬ知見が得られるかもしれません。…では、対話のスタートです。




閲覧数:26回0件のコメント

Comments


bottom of page