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「若いうちの苦労は買ってでもしろ」の罠


 どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士でピアサポーターのぬっぺふです

 先日妻が研修で不祥事防止研修を受けてきたそうですが、なぜか講師の方の生徒・保護者との関わり自慢で終わってしまったとのことで「やはり当事者が口を開くしかない」との思いを新たにしているところです。

 ということで本日も不祥事教員を減らすための情報提供をしていきたいと思います。


 さて、今回のテーマは「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という言葉に潜む罠です。

 この言葉は昔から言われているだけありそれなりの含蓄があります。体力的にも時間的にも、若さは大きな武器です。その時期に沢山の経験値をつみ、周囲からの信用を得ておくことは確かに未来への投資となるのでしょう。


 私の敬愛して止まない、かの妖怪漫画家水木しげる氏も

「若いときは一生懸命やる。本気でやる。そうするとそのお釣りで40代以降は楽ができる」との言葉を残しています。

 未来の楽のためにも、今目の前の仕事に本気でがむしゃらに取り組む。この発想は的を得たものに感じますよね。  ですが同時に水木氏はこうも言っています。


「寝る時間を削った連中はさっさとあの世にいってしまった」

「幸福の7カ条。

第1条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。 第2条 しないではいられないことをし続けなさい。 第3条 他人との比較ではない、あくまでも自分の楽しさを追求すべし。 第4条 好きの力を信じる。 第5条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。 第6条 なまけ者になりなさい。 第7条 目に見えない世界を信じる。」

 

この言葉を見るに、私は一般的に言われる「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とは違うことを水木氏は伝えているようにも感じるのです。

ということで今回は、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」は真実なのか?について考えていきたいと思います。

では、いってみましょう。ブーン。





 

1.若いうちは苦労してもいいが無茶を続けてはいけない

 

 結論から言うと、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」は大きな誤解をされがちな言葉だと思います。とくに教員に関しては弊害の方が大きい言葉なのではないかと。

 なぜなら教員の職業は総合職で種々雑多。手広く全てをこなそうとしたら勤務時間では絶対に足りません。

 …私が初任者のときに言われた言葉として

「教科・生徒指導・部活・進路指導の中で2つできれば学校の中で存在が許される」

 というものがありました。でも冷静に考えたら部活動をまともに全力で取り組めば勤務時間はオーバーするわけでして。

 

 ちなみに最近では教員の資質として各県が色々なものを掲げているのですが、私が初任時に求められる能力よりもはるかに必要とされるものが増えているようです。

 東京都の掲げる「教員に求められる基本的な4つの力」では、

『学習指導力、生活指導力・進路指導力、外部との連携・折衝力、学校運営力・組織貢献力』とのことです。

 おいおい4つじゃ収まってないじゃんという。

 いやはや多忙な時代になったものです。なぜ必要な素質とやらが増え続けるかといったら、現在の国の問題を場当たり的に学校に解決させようとしているからごった煮になってきているわけですが、まあその辺の愚痴は別の機会にまわしましょう。ともかく、教員には求められる物が多すぎるということです。


 たしかに勤務に伴う避けられない苦労は若いうちにこなしていく必要があるでしょう。保護者や生徒とのやりとり、時には対決。教科についての思考錯誤…そうした教員をすべき上で絶対必要な経験を積み重ねていくことは重要です。ですが、全ての教員が東京都の言うようなの素質を備え、あらゆる分野をこなしていく必要はあるのでしょうか。そんなことになれば絶対に生活時間の侵害が起きてくる。


 間違ってはいけないのは、苦労と無茶は違うというこなのです。この2つを混同すると、貴重な若い時代を何も得ることなくすりつぶしてしまう可能性すらでてきます。では、苦労と無茶が違うというのはどういうことなのでしょうか。



 

2.苦労と無茶の違い


 さて、私はASD傾向もありまして、言葉を使うときはまずその定義をちゃんと確認したいタチなのです。ですので、まず辞書で苦労と無茶の2つをひいてみましょう。


 それによると「苦労」とは「ものごとがうまくいくようあれこれと骨をおること」だそうです。

 若い教員にとってあらゆる仕事は未経験。そんな中仕事の体裁をたもとうというのでああれば、そりゃあれこれ骨を折らなくてはならないでしょう。あらゆる苦しみから逃げていては長い教員生活を生き抜くことはできません。

(まあ実際は好きなことだけやって周囲がフォローする形で定年までいっているタイプの先生もいますが、そうした人はそもそもこのページにはたどり着いていないでしょうし)

 

 ですが、だからといって必要以上の苦労を重ね、折れた骨が繋がる間すらないというのではそれは苦労ではなく「無茶」といえます。

 無茶は辞書的には「でたらめで、筋道がたたず、普通でない事、乱暴」あるいは「異常に程度がひどいこと」を指す言葉とのこと。折れた骨で苦労し続けるのは一種の拷問ですからね。これは無茶です。


 こうした違いをよくわからず「苦労」と「無茶」を混同している人がいますが(私の恩師の口癖は「無茶しろ!」です)、この2つはやはり区別をしていく必要があるでしょう。

 そして、その区別についてなのですが私見として大きなポイントとなるのは「無茶は道理にそわない動きをしているため、その負担をカバーするために『代償』が必要になる」ということだと思っています。


 無論、生きていく中で一時的な無茶をせざるを得ない時はあるでしょう。とくに発達障害のADHD傾向の方などだと締め切り直前になるまでスイッチが入らなかったりするために、前日徹夜などで課題をこなしがちです。でもそれが単発で終わるのであれば健全な無茶で大きな問題とはならないのです。必要な代償もわずかですむので(せいぜい翌日眠くなるくらいのものでしょう)。

 ですが、長期間の無茶となればいかがでしょうか。支払う代償は次第に大きくなり、本来であれば仕事の「苦労」、つまりは折れた骨を回復させてくれるはずの時間、趣味、関係性をも支払わなくてはならなくなってくるでしょう。その先に、悲劇が待っています。



 

3.無茶の代償



  確かに若いうちは支払える代償が多く存在します。結婚していない独り身の内であれば、極論学校に住み着くことすら可能です。

 身体的にも元気なため、多少の徹夜や不摂生はむしろ「私は頑張っている」という達成感(=主にドーパミンという脳内麻薬がでます)だったり「勝負だ!」という臨戦態勢(=アドレナリンという脳内麻薬がでます)で誤魔化せる。

 そして、長時間労働をしたとしても、同じような仲間を誘って仕事終わりにディナーでもすれば元気が充足されてしまったりするものです。うーん。青春。


ですが、そうした代償はいつまでも支払えるのでしょうか?

もし、あなたが若い教員で、いつか結婚して幸せな家庭を持ちたいと考えているとします。その時に、上記したような働き方はできますか。

 例えば子どもが生まれたとします。そうなればあなたが男性であれ女性であれ、育児に大きな労力を割かなくてはならなくなります。

 よくベテラン教員の方が「皆通ってきた道だから」といいますが、あの言葉を鵜呑みにするのは危険です。なぜならば、2~30年前と今では時代が大きく違うからです。

 まだ良くも悪くも地域社会が存続しており、また祖父母が既に仕事を終えており、周囲にヘルプを求めながら共同育児を行えるご時世では今はありません。なんせお国は70歳を超えてもまだ働けという時代なのですから。


 いわゆるワンオペ育児の時代の到来により、現代の育児は過去と比較にならないくらい大変になってきています。というより夫婦共働きをしないと家計が支えられない状況の中、ワンオペどころか0.5オペくらいの家庭も多いのではないでしょうか。

 まして発達障害傾向であったり軽度知的障害であったりと発達の凸凹を持つ子どもであればその苦労はより強まります。男性だろうが女性だろうが、一人で抱えると心を病んでしまうくらいに。


 

 



さあ、では考えましょう。こうした中、貴方はどのくらいの無茶ができますか?


 家庭を犠牲にして学校に12時間い続けられますか?

 夜泣きの子どもを支えながら教材研究をし、翌日朝練のために5時に起床、離乳食を作って5時半に出発という生活を続けられますか?

 断れなかった部活の付き合いの飲み会の最中、携帯電話がなり「親としての自覚があんの?」と配偶者に言われてなお「これが私の生き方だ」と開き直ることができますか?

 いやあ、私は無理でした。


 今回は育児を例にしましたが、親の介護などでも同様の状況は起きてきます。大切なのは、今を積み重ねた先には未来があり、そのとき自分はどう働いているのだろうかということを想像することです。


ちなみに、今お伝えしたのは無茶の代償の1側面でしかありません。もう一つ恐ろしい無茶の側面があります。それは、「30代を越えたころに訪れる空白感」です。


 これは「アイムジャスティス!」と言い切れる脳内ハッピーな方は感じ辛い問題なのですが、そうでない自信ない頑張り屋さんにとっては正直命の危険につながる恐ろしい代償だと思っています。


さあ再び考えてみましょう。


初任校でがむしゃらにがんばり、貴方はそれ相応の成果を残したとします。

 むしろ無茶をしたことによる成果に充実感すらあるかもしれません。ですがこの空白感が牙をむいてくるのはおそらく2校目以降なのです。


 恐ろしいことに、学校を異動すると初任校で通用したスキルが全く通用しないことが多々あります。それもそのはずです。昔から「学校が変われば会社が変わるようなもの」と言われているように現状日本の学校はそれぞれガラパゴス化しているのですから。

 どんなに貴方が苦労や無茶をしてスキルを身に付けても、そのスキルが使えない環境に投げ出されることは多々あることなのです。

 そして、そうした時期にふと不安になるのです。自分が気付かぬ内に「空っぽな人間」となってしまっていることに。


無茶しすぎず働いている先生が職員室で素敵な趣味の話をしている瞬間に。

民間で働く友人のSNSで、スペシャリストらしさを見せつけられた瞬間に。

自身の授業が満足のいく教材研究ができていないと気付いた瞬間に。

テレビで同世代の人間の活躍をみた瞬間に。

 …自分が積み上げてきたものが実はその場しのぎの無茶の連続で、自身が本当に積み上げたかった経験、人との繋がり、受けたかった研修…それらと大きくそれてしまったのではないか?ということに。


 この傾向は実は教員に限ったことではありません。

 男性の場合、今後の人生について思いを馳せだす30代~40代が一番精神疾患となる確率や自殺に向かう確率が高いのです。女性の場合は育児が一息つく年代で一番リスクが高まるとされていますが、このデータも今後変化していくのではないかと思われます。


 

4.若いうちに学ぶべきことはなにか


 


 以上のことから私がお伝えしたいのは、若い時期にしなくてはならないことは「苦労」ではあっても「無茶」ではないということです。

 そして、最も大切なことは「今後自分をとりまく環境が変化したとしても大丈夫な働き方」を考えていかないといけないということです。

 

 そのためには「若いから」という理由だけで求められた仕事すべてに「YES」ということは必ずしも正解ではありません。本来、「これをやって」と言われたときに「NO」と言ってはいけないのは「ベテラン」であるべきなのです。

 ※でも実際は「NO」ばかりのベテランが多く、そのしわ寄せが若手に「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という言い訳とともに降ってくると思ってください。


無茶を続ければ「代償」はやがて底をつきます。子どもができたり親の介護などが発生することで今まで払えていた「代償」が払えなくなることもあり得ます。

そうしてあなたが「代償」を支払えなくなった結果は、最終的には周囲に飛び火していくことになるのです。今まで一生懸命自分を削り仕事に励んできたのに、最終的に行きつく先が「周囲への迷惑」とはなんとも辛い話です。


今まで述べてきたことを踏まえて考えるに、 私は「若手こそゆとり」が必要だと思っています。それは折角自分のために使える時間があるのであれば、それを学外の研修であったり、映画をみたり、本を読んだり、学校外の友人との情報交換をすることで自身の仕事の重要性を再確認すると同時に民間の状況を把握したりと、学校内にとどまらない成長の機会にあてるべきだと思うからです。

 夏休みに1か月休みをとって海外に一人旅にいくのもいいでしょう。こうした自身の枠広げをちゃんとやる余裕をもった教員の方が、生徒にとっても魅力的な人間に映るはずです。


そしてそのためにはベテランの意識改革が本当は必要なのです。自分の世代の経験を絶対視せず。今の世相を理解し。自身の子育てが一区切りつき、親の介護もまだ本格的に始まっていない年代の「ベテラン教員」こそ、本来は「若手にゆとり」を与える存在になるべきだと思うのです。


 余談ですが、私は言ってみたいセリフがありました。初任で入ってきた先生に「夏休みの部活はこっちで見るから海外でも行っておいで」です。「自分の時間を大切にしなさい」という言葉です。

 結局初任者の指導教官をやる前に私は不祥事教員になってしまいましたが、今後はそうした新しい「ベテラン像」も必要になってくるのだと思います。


また、若手は初任校での経験について絶対視をせず、「2校目以降にすぐに活かすことはできない」という認識をもっておくことも大切です。

 …もし既に「若いうちの苦労をしすぎてしまった方」は、2校目では育児や心身の疲れを理由にしてもいいので、焦らず無茶せずやれる範囲でまずは仕事をしていってもいいと思います。


 さきほどガラパゴス化しており役に立たないとはいいましたが、積み上げた経験値そのものは無駄にはなりません。それを消化し、無茶しない働き方の中で自身の個性として活かしていく変容の時期をとることができれば、きっといつか貴方の身を助けるでしょう。

 あ、初任校での成功に縛られてより無茶を重ねたりするのはダメですよ。無論あなたが「家庭もいらない、育児もしないでいい、私には学校がすべて」というのであれば話は別ですが…

 

5.最後に


 以上、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」について考察してみました。

 ・・・教員は対人職です。うまくやっていたとしても長期的に無茶を続ければ人はとがります。とがった人間が生徒の安全基地になれるでしょうか。私はそうは思いません。

 だからこそ、苦労はあったとしても、無茶を続けてまでするべき苦労はありません。だって一番大切なのは対生徒であり、そのときに健康な心身でいることなのですから。

 それができないくらいに無茶をしているとすればそれはやはり生徒のためにはならないことなのでしょう。

 教育現場において本質的に生徒のためにならない行動は教員のマスターベーションでしかありません。教育現場にはマスターベーション教員も多く色々な言葉をかけてくるかと思いますが、「貴方が長期的に生徒と笑顔で関われる」こと以上に重要なことはないはずです。


さて、最後は少し言葉が汚くなりました。申し訳ない。今回はこのあたりで筆をおきます。どうか、過剰な無茶のために貴方の笑顔や未来が閉ざされませんように。草葉の陰から応援しています。

では、またいずれ!



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