以下には、不祥事が発覚してから約半年近くの間の記録をなるべくそのまま記載していきます。当時の不安定な気持ちをそのまま載せるため、今のぬっぺふの考えとは違う思考も書かれていますが、あえてそのまま載せていきます。
なぜならば、自業自得とはいえ辛くて抜け道のない日々をさまよっている時にインターネット上で出会った「私たちはトンネルを抜けて今ハッピーです。いつか報われますよ★」といった内容の文章は見ていてとても辛かった記憶があるからです・・・。
(そしてなぜかインターネット上はそうした記事が非常に多い…)
…どんぞこ状態の自分が読んで、「あーこの気持ちわかるわー」と思えるようなページがあってもいいのではないかと当時からずっと思っていました。
当HPも実体験をもとにアドバイスをしていくHPになってしまうからこそ、上記したような「あーこの気持ちわかるわー」といった内容、つまり当時の自身の状況も晒していく必要があると思います。
なお、以下の内容を整理し、大体どのくらいの時期に心境の変化が訪れているかといった表についても後日整理してみようと思いますので、「ぬっぺふがどう思っていたかなんて興味ないやい」という方はそちらの記事をご覧くださいませ。
では、とりあえず懲戒免職がきまるまでの記録、いってみましょう。
※自身の特定=被害者の特定でもあるため、細かい情報については多少の手直しをしていますが、それ以外は無修正です。なお()内の色付き文章については現在のぬっぺふからの補足となります。
※ぬっぺふの家庭状況は、妻・長男(当時2歳)、長女(当時0歳)です。
ぬっぺふの行った不祥事の詳細は被害者特定につながるため詳細にはかけないのをお許し下さい。とりあえず軸は盗撮と思って頂いて結構です。
1日目
早朝警察の訪問
PCその他ハードディスクの差し押さえ
長男、訳が分からず泣く。「お父さんが連れてかれちゃった!」
妻、蒼白。午前中いっぱい事情聴取。
この時点では盗撮とは別案件での聴き取りだったため、職場に伝えるかどうかは貴方に任せますとのこと
午後、長男は保育園にいっており、妻に事情を説明する。
盗撮を行ってしまっていたことがあり、それが明らかになるだろうといった旨を伝える。
妻からは長男が私のことを大好きなので離婚は考えていないけれど、正直あなたが怖いと伝えられる。
両親に事情を報告。弁護士を早めに入れることをアドバイスされる。幸い、従妹が弁護士をしていたこともあり、事情を説明し、近隣にいる弁護士を紹介して頂き、その日の内に訪問。
2日目
学校へ通勤。朝の内に校長先生に事情を説明し、詳しい聴き取りは放課後に行うことになる。
最後のSHR。ああしなきゃ、こうさせなきゃという強迫観念を捨てて眺めた彼らはとても眩しく見えた。そこにいたのに、何を贅沢ばかり伝えていたのだろう。
校長先生からは弁護士と早く契約して一緒に警察に行ったほうがいいとのアドバイス。
一緒に帰宅し、さしおさえ文書等のコピーを渡す。
その後、弁護士と会合。正式な依頼をする。
弁護士から告げられた目標は「とりあえず逮捕されないこと」。そのためには隠し立てがないこと、全面的に操作に協力する意向を伝えていく必要がある。
その場で警察に連絡をし、2日後の夕方に追加の報告をしにいくことになる。
捜査への協力及び本人の見守りを行う旨を記載した上申書を両親に依頼。
夜、両親来る。そのころ校長より翌日以降は自宅待機の指示あり。
3日目
事情を聞いた先輩教員から「生きろ!」のメールあり。噛みしめるも、返信は出来ず。
自身の上申書を作成。
夕方、校長先生が辞表を取りに来てくださる。その際車の中で撮影時の状況や現在の心情を聞かれる。
自分は今までやってはいけない、やったらこうなる…と葛藤し、それに負けてきたがそれは根本的に自分目線しかなかったからだと感じた。発覚したときに相手がどう思うのか、周囲の人はどう感じるのか、それが考えられていなかった。見つかったら職を失う、警察沙汰になる、それは困る、といった程度の考えだったのだろう。自分目線だけで葛藤すれば自分のやりたい方向に動くのを止められないのは当たり前。今は本当に被害者の方、家族、職場の人々、みんなに対し申し訳ない気持ちでいっぱいである、との旨を伝える。
4日目
食欲わかず。夕方、弁護士とともに警察へ。「包み隠さずに伝えること」を再確認する。
盗撮の件について報告。ファイルがどこにあるかを正直に伝達。
弁護士から「被害者の方の動揺をさけるためにも実名はさけたい」という申し出
警察側は「基準は明確に上で決まっているのでなんとも言えないが、そういう申し出があったことは上に伝えておく」とのこと。
約45分くらい話して今日は帰ることに。
弁護士から、①なぜそのようなことをしてしまったのかの経緯②謝罪の気持ちを早めにまとめて連絡してほしいとの宿題をうける。
5日目
校長先生が来訪。県に提出する報告書の最終確認を行う。「学校にかけた迷惑をよく考えろ」との言葉を受け、自身が本当にどうしようもない犯罪者と痛感する。
6~7日目
弁護士からの宿題に取り組む。
8日目
朝、長男が大泣きして保育園になかなか行かず。警察と電話にて盗撮のファイルがどこにあるかについてやりとり。また弁護士からは最終的に弁償としてどこまで払えるかについて聞かれる。
9日目
長男の安定と妻側の実家への発覚をさけるため偽装出勤がはじまる。
7時に河原沿いの公園駐車場へ出勤し、午後5時頃退勤する。
校長先生から連絡あり。顛末書の作成について指示をうける。
10日目
弁護士より連絡あり。被害者と連絡をとったところかなりのショックをうけており、謝罪文を読む気にはなれないということ。弁護士からの言葉には「謝罪文の中身が自分勝手です。もっと被害者の気持ちになって書いてください」というニュアンスを感じ、やはり自身は自己中心的な人間なのだと強く感じる。
妻から、平日は実家に行っていようかとの打診あり。妻の意見としては「貴方が集中して取り組めるように」とのこと。それを聞いて、自分は妻に甘えていたのかもしれないと反省する。自分の罪に一人で向き合い続けると頭がおかしくなりそうだったので、なるべく娘や妻のいる空間で過ごすようにしていた。今この瞬間にも被害者は苦しみ、学校は大迷惑をこうむっている。そんな中自分はなるべく日常を送ろうとしていなかったか?そんなつもりはない、けれど、無意識に目を背けていなかったか。背けてはいけない。向き合わなくてはならない。
11~14日目
顛末書をかき郵送をする。悪いイメージばかりが浮かび夜は眠れず。
15日目
心療内科を受診。ADHD&ASDの診断をうける。
その後市役所へいき、医療費負担が1割となる自立支援制度についての説明をうける。
性的な欲求のコントロールについて、グループ治療等のプログラムがないかについても探しまわり、保健所にも相談にいくが、周辺では実施状況なしとのこと。
処方された睡眠薬のおかげで久しぶりに深めの眠りをとる。
16日目
県庁より呼び出しあり。夕方2時間ほど事実確認の聞き取り。今後の動きとして2週間から1月の間に再度県庁へ呼び出され懲戒免職の申し渡し。その翌日には新聞に名を伏せた報道がされるとのこと。実名が出るとしたら警察の発表のあとであり、時間差が起きる可能性は大きいと聞く。
校長先生からは「子どもが幼くて幸いだった。教員だった過去を匂わせる人間関係、資料、本等はすべて捨てること」を勧められる。
(現状では、子どもに自身が元教員であったことは隠してはいません。いつか正直にこうしたことがあったことは打ち明けるつもりでいます。)
この頃、長男の保育園問題に気が付くことになる。自身がしたことに妻や息子、娘を巻き込んではいけないはずなのに、自分のせいで長男は友人と引き離されることになるかもしれない。
17日目
市役所にて事情を説明する。機械的に2か月で保育園退所とはならないとの話を伺い安心するも、保育園にも事情の説明が必要との言葉を頂く。
アランという学者がいうには人はなりたいものになるとのことだ。ならば今までの自分の行いも自分が選択した結果だ。しかし、今後自分がどうなるかは自分が決められる。受け止めること。反省すること。そしてしかるべき罰をうけ、その後は生き方を改めるのだ。
(当時、不安をごまかすために偽装出勤の間ランニングをしたり小説をかいてみたり、心理学や哲学の本をよみ自己分析に役立てようとしたりともがいていました。その際の一文です)
性依存的な部分を消せ。卑屈になるな。人をほめろ。心を開け。ないものねだりではなく今あるものを見ろ。すべてを改めなくては、被害者をはじめ迷惑をこうむった人々に合わせる顔がない。
18日目
弁護士の下へ訪問。
①今は謝罪の気持ちをしっかり整理しておくこと
②保健や保育園の必要な手続きはしておくこと
③精神科のプログラムを探し、しっかり取り組むことが大切
であると再認識する。午後は妻と散歩に行く。手は、やはり繋いでもらえなかった。
19日目
保育園で園長先生に事情を報告する。
20日目
妻が義母とともにお祭りに行くとのことで、自身は実家へ。車のタイヤを交換。昼食ののち、母に顛末書(県に提出する、事件の一部始終について記録した用紙になります。ちなみに手書きです)を見せた。
最後に3人で自宅裏の田園地帯へ行き、野良チャボに餌をやる。ここを自転車で駆けていた時はこんな人間になってしまうなんて思ってもみなかった。人よりスケベだなくらいに思っていた。でも違ったのだ。自身の弱い心を、変えなくてはならない。
夜、初任者の頃に大変お世話になった先生から電話あるも、出ることは出来ず。あれだけ手をかけてもらったにもかかわらず、最悪な終わり方をしてしまった。自分を知っている人すべてを裏切ったのだということを再認識する。
21~23日目
心療内科に行くも、性的嗜好に関するプログラムを実施している精神科は周辺にはないとのこと。自身で情報収集をし、SOMECと榎本クリニック、遠藤嗜癖相談所の3つで検討。
(神奈川や群馬にもそうしたクリニックはありますが、遠方すぎたので東京にしぼりました)
最終的に遠藤嗜癖問題相談所に決定し、初診日を決定する。そもそも性的なものに時間がかかりすぎていたり、自分の嗜好が普通の人と違うことは大学あたりから気になっていたはずだ。しっかりプログラムをうけて、昔の自分に帰るのだ。迷惑をかけてしまった人々への償いのためにも、家族のためにも。
(リハビリは取り戻すことが語源ですが、必ずしも健康であったころに戻ることを意味する言葉ではありません。自分の現状をうけとめた上で新しい生き方を作り上げていくことが重要なのですが、まだそうした目線は当時の自分にはありませんでした)
24日目
民間の生命保険等について相談に行く。結論から言うと、入院保険については変更のしようがないことがわかる。積み立て型の終身保険については年数の変更はできないので、やれるとしたら保障の減額のみ。また、心療内科に通っていることから掛け捨ての生命保険で加入可能なのは緩和型のもののみとなる。
(なお、掛け捨ての生命保険保険に関しては教員時代の保険に継続して加入していられることが後わかり継続しています。心療内科に通ったり精神保健福祉手帳を取る際の大きなデメリットの1つが生命保険の新規加入が非常に限られるということかと思います。また、ローンを新たに組むこと等も難しくなります )
25日目
校長先生が来訪される。盗撮の被害者へは県教委の方針で事前に連絡が行くことになったとのこと。午後は弁護士のもとへ。もし示談の交渉する人数が増えた場合は弁護士費用も2倍近く跳ね上がるとの言葉を受ける。そもそもそうなった場合は示談そのものにどのくらいの金額が必要になるかも予測できなくなる。諸々含めて状況は悪い。いや、悪いという捉え方をしてしまうこと自体が自分が目を背けていた結果なのかもしれない。最悪の状況であるのはかわらないし、それを作ったのは自分自身だ。そのことから目を背けてはいけない。
妻に「子どもがいなければ別れている」と言われる。そうだろうなあ、と、思う。自分の勝手な行いのために、妻は味わう必要のない心労を重ねているのだ。そして、被害者はもっと辛い恐怖や男への不信感に身を置くことになる。それが俺のやったことだ。認識しろ。想像しろ。
26日目
人目を気にして帽子など被って外出するたびに、自分が犯罪者であることを強く意識する。
おそらく今日被害者へ連絡が入るはずである。皆、何を思うだろうか。
今、俺自身は先が見えない不安の中にある。でも俺のそれは所詮自業自得。被害者のそれはここからはじまり、いつ終わるかわからないものなのだ。男性恐怖症になるかもしれない。仕事に支障が出るかもしれない。思い出を汚すのは間違いない。それだけのことをしたのだ。
だから、今後とんでもない苦痛が自分に降りかかるのなんて当たり前だし、大したことではないのだ。自業自得なんだから。被害者は何も悪いことをしていないのに、様々な被害をこうむったのだ。それを思えば自分の保身を考えたり、希望的観測を持つことがいかに馬鹿らしいことか。
ともかく、ありのままをうけとめ、猛省しろ。
お金が必要になれば払うし、離婚してと言われれば従え。働ける場所があるのならどこででも文句言わず金を稼ぎ、長男長女とみっちゃんを少しでも支えられるように生きていけ。それしかないのだ。
27日目
昨日の午後から実家。居心地の良さに甘えるな。しっかり罪を償い、親にも恩返しをしなくてはならない。
本当ならこちらが守らなければならない高齢者なのに。すべてを壊したのは俺の行為だ。それを忘れるな。
11時から実家周辺の公園へ。その後4時頃に自宅に到着。
妻から「少し離れて妹や母との昼食をしたりする中で普通の人の感覚を思い出した」と言われる。そりゃそうなのだ。俺がやってしまったことはあり得ないしキモイし罪のない人が苦しむという意味でも最悪だし。
夜は万が一のマスメディア対策でやろうとしていた懲戒免職が告げられた翌日の外泊を、警察からの呼び出しがあることを想定してキャンセルする。
警察からの呼び出しの結果、逮捕されるのかもしれない。どうなるかわからない。県教委からの連絡がいって、保護者から直接電話をもらうことになるのかもしれない。すべてが怖い。けれど、被害者はもっと怖いのだ。そこに思いを馳せよ。
28日目
日中は大きな公園で長男を遊ばせる。周りの家族、というか父親がみな立派に見える。俺はどう映っているのだろう。
夜は学校へ片付けへ向かう。教頭先生が付き添ってくれる。運ばなくてはならない荷物は多く、多くのものを捨てる判断をし学校のゴミ捨て場に置かせて頂いても時間はかかり、結果教頭先生を3時間半以上待たせることになる。申し訳なかった。
正直作業中は感慨にふける暇もなく処理を続けたが、帰ってから教員として過ごした年月の重みを感じた。
徹夜をして完成させた文集、イベントの報告書、数百枚を超える自作プリント、卒業生から渡された手紙、色紙その他諸々。自分の行いがその年月に泥を塗ってしまったし、自分を信じてくれた人々を裏切ることになってしまった。
29日目
県庁よりの呼び出しの日。まずは荷物を持って実家へ。先日回収した教員時代の大量の資料、荷物を一時的に実家に置かせてもらいそのまま電車で県庁へ向かう。
現地で待ち合わせた校長先生からは被害者には2日前の時点で連絡がいったこと、中心となった被害者の1人はそれでもなお「奥さんと子どもは大丈夫ですか?」と心配していたこと等を聴く。
申し渡しは学校の生徒指導の申し渡しと同じ形だった。校長は「私の管轄にこのような教員がいることが迷惑千万である、本当ならば実名報道が当たり前であるが、被害者のことを考慮して実名を避けるために学校側は動かなくてはならない・・・」といった旨の言葉を聞く。
退職金は消滅。当たり前である。お金では済まない迷惑をかけた。もしこの失った金額をもったいなかったと感じるようになるのなら、反省がたりん。
その後、失業手当についての説明をうけるもあまり頭には入らず。
(正直、ここでしっかり聞いておくべきだったとは思いますがなかなか難しいものです。少なくとも頂いた資料についてはしっかり保管しあとで見直せるようにしておきましょう)
「自殺などしないよう無事に届けなくてはならないから」とのことで教頭先生と合流、車で自宅前まで送ってもらう。その中で、
①携帯電話の番号を変えること
②1週間嵐が去るまでネットを見ないこと
③警察に反省の意思をしっかり示すこと
等を伝えられる。
自宅に着いてから急いで電話番号を変えようと思うも、車は実家近くの駐車場に留めてきてしまっている。結局父母に自宅まで迎えに来てもらい、駐車場への道中にあった携帯ショップにて電話番号を変える。途中、頭がショートする感覚あり。呼吸が荒くなるなどあの時ほど薬が欲しいと思ったことはなかった。脳がもう言葉を処理しきれないという感じだった。最終的には市販の漢方薬(抑肝散)を飲み、口にパンを入れながら自宅へ戻ってきたのが夜8時半ころ。
その後は妻と万が一マスメディアの記者が自宅を訪れた場合の動きを考え就寝する。
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