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ぬっぺふの当事者研究①


どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士でピアサポーターのぬっぺふです

どうしてもブログの内容が教員関係に傾いている部分があったので、ここいらで過去に行っていた自身を対象とした当事者研究をアップしていこうと思います。


まず第1回目と2回目については、自身の成育歴を振り返りつつどのような経緯で二次障害へと陥っていくか、の分析です。その後3回目で半生を振り返っての気付きを、最後の4回目では自身のアセスメントと、発達障害およびそのグレーゾーンとはどのような辛さがあるのかについてまとめていければと思います。


では、まず第1回、ぬっぺふの成育歴を見つつ発達障害あるあるを確認していきましょう。


※なお発達障害については困りごとは人それぞれです。私と同じような特性を持っていても環境の違いから全く困らないという方もいるでしょう。なので、あくまで私のケースを軸にした当事者研究であることはご了承下さい。


※緑の書き込みは、現在のぬっぺふからの追記であったり感想です。

 

1.はじめに


 自身をどう捉えるべきなのか。

 何の役にたつかはわからないが、ピアカウンセラーとして働く上で自身のライフヒストリーを整理しておく必要や、当事者研究を積み重ねておく必要はあると考える。

※ピアカウンセラーとして勤務中にまとめていたのです

 

 正直、自分は言い訳をしているのではないかと不安になることがある。つまるところ全部自分の能力不足、努力不足、性格の悪さ、弱さが原因なのを何とか合理化しようとしているだけなのでは、とも。この感覚は自己分析をしている精神障害者にとって常につきまとう不安なのかもしれない。

 それでもなんとなくの記憶を一度しっかりと言語化することで見えてくるものもあろう。何も気付きを得ることができない可能性もあるが、まずは自身の半生を振り返ることから始めたい。


 

2.生誕から幼児期


 雪の日に誕生。予定より遅れそうとの報告をうけ、母が退院しようとしていた矢先のことであり、のちのギリギリで間に合わせようとする性格が伺える。

 雪太郎と名付けられそうになりつつも祖母が占い師に聞いた画数と漢字から命名される。祖母、グッジョブ。

 

※祖母は戦中研究者として東南アジアに派遣されており、現地文化に親しんだ方でした。戦後は極貧の中3児を育て、のちに生涯の目標であった作家としてデビューをし世界中を飛び回るなどアクティブな方でしたが、今思うと思いついたら即行動、周囲の迷惑関係なし、という特徴があり多分にADHDの傾向を持っていたように思います。霊感も強かったので、統合失調症になりやすい家系だったのかもしれません。昔でいうところのシャーマンタイプと言うか…


 生まれたぬっぺふは、ハイハイまでは動かない、静かな子だったとのこと。周囲をじいっと観察していたらしい。動き出してからはともかくどこにでもいってしまい、特に冷蔵庫を勝手に開けるので我が家の冷蔵庫には鍵がかけられていた。

 

 幼児期も手のかかる子だったと聞いている。保育園に連れて行くも室内には決して入ろうとせず、庭で一人でご飯を食べていたそうだ。

 絵が好きな子どもで、当初は興味がないようだったが3歳ごろから夢中で描くようになった。4歳ごろに描いた新幹線の絵は遠近法を使って描かれており、園長先生に「これは7歳レベルの絵だよ」と驚かれたそうな。芸術関係で独創性を見せながら、一方でその頃担当してくれていた保育士さんからは「おちそうなドブには必ずおちる子どもだった」との評を頂いている。

 突飛な行動も目立ち、遠足で訪れた公園で川にパンツを流したところ周りの子ども達も一緒になって流し始めてしまい保育士を困らせたそうな。

 個人的な思い出として印象に残っているのは2歳か3歳くらいまで3次元の世界に現実感を持てなかったということがある。目をつむると現実が2次元になる。4,5歳頃には「ああこっちが現実か」と認識できるようになったけれど。 


※こうした現象は視覚刺激に敏感なために脳が負荷を下げるためにとっていた対処だった可能性があると今は感じています。それとも幼少期は誰もが通る道なのでしょうか?情報等あれば教えて頂けるとありがたいです。


 4歳頃は教祖ごっこで遊んでいた。自分で何かを作るのが好きな子どもであった。怖がりなわりに演劇など大舞台では物怖じせず動けるという部分もあり、今思えば非常に典型的なADHDの特徴を持っていたと言える。


 小学校に入ってからも基本的な行動パターンは変わらず。この頃自宅にファミリーコンピューターが導入され、ドラゴンクエストの世界に没入する。といっても自分がプレイするよりは親のプレイを眺めながら空想にひたるといったものだった。

 攻略本のデータを覚えるのが好きで、いまだにくさりかたびらの守備力はいくつで何ゴールドで売ることが出来て…というものを覚えている。幼い子どもは大体通る道なのかもしれないが。

 このころになるとドブにおちにくくなったが、忘れ物は非常に多く、ロッカーも机の中もきれいだったことはない。図工、音読、演劇などは積極的でそれなりに才もあったように思える。授業中席を立つことこそなかったが、常に椅子を浮かせたり、手遊びをしながら空想にふけったりしていた。また、自転車の運転中にわざと目をつぶるなどの行為をよく行っていた。

 短期的なことは忘れっぽいわりに昔のことを良く覚えているなど長期的な記憶力は悪くなかったため、勉強面ではそれなりにやっていけていた。運動神経はあまり良くないものの身体能力も低くはなかったので落ちこぼれてはいなかった。


※発達障害には協調運動障害というものがあり、体をバランスよく使うことが苦手であったりします。身体能力には関係ないのでスポーツテストの結果などは悪くはならない面があり、一見すると運動神経は悪そうに見えないのもくせものです。ぬっぺふの場合は唯一、投球だけが苦手で自分自身不思議だったのを覚えています。

 思春期以降体育の内容がどんどん球技や体操と協調運動に寄っていく中で自身喪失していきました。

 協調運動障害は話を聞きながらメモを取るなど同時に複数を行うことが苦手という形で現れる面もあり、よく「お前はやればできるはずなのになぜやらないんだ」という評価を下されがちです。そしてそうした叱責への対応として、本人はわざとふざけた道化を演じるか、反発した不良を演じるかに追いやられてしまうこともあります。生徒の中でこうしたタイプがいた時は、彼が協調運動が苦手なのではないか?という目線も持って関わって頂けるといいかと思います。


 この頃の自分は、人と違うことを自信に思っていた感がある。そしてそうした肯定感を人と違うものを作れる、という面に見出していたように思う。かんしゃくを起こすこともあったが、人を殴ったりするタイプではなかったこともあり問題行動とはとらえられることはなかった。


※このへんは選好性の違いですね。発達障害の方には一般的な方と好みが違う場合が見られ、そのせいで自身の意見が通らない、認められないなどの自信喪失につながることがあると言われています。このころはまだ自信があり、幼かったこともあり、選好性の違いにこそアイデンティティを感じていたということなのでしょう。

 かんしゃくについては、はずかしながらぬっぺふはいまでもかんしゃくを起こしています。ただ、最近わかったのはあれはかんしゃくではなくて一種のパニックになっているのだということです。外部からの刺激(視覚、聴覚、触覚、嗅覚等)を遮断し、場所を変えて避難することで少しずつ落ち着くことがわかっています。


 小学5年生の頃になると、友人との間がぎくしゃくする経験が増えた。そうは言っても喧嘩ばかりするというわけではなかったが、どこかよそよそしくされたり、周囲との間に違和感を感じたことを覚えている。それまでと自分が大きく変わったわけではないはずなのだが、なぜかうまくかみ合わない。

 当時は自分が皆にからかわれていた子を守るように一緒にいたためだと考えていたが果たしてどうだったか。

 

 今思えば一方的に話す、気分の上下、単独行動の多さなど、定型発達の子ども達に比べうまくコミュニケーションがとれていなかったのだろう。そうしたこともあり、このころ自分の世界と他人の世界が違うことに恐怖を覚えたことはよく覚えている。

 教室のオルガンの前で友人に「ゲームのサウンドトラックがオーケストラの音源になっており、木琴のような音が入っててとてもすごい」と主張していた際、「それはすごいね」と引き気味に友人が言った時にはじめて自他の世界の違いを感じることになった。

 そうは言ってもいきなり行動が変わるわけでもなく。ただ、今まで持っていた「僕はやれる子」という自信が崩れる予感を漠然と感じていた。


※後述する強烈な眠気もこの時期からはじまっています。

 

3.思春期


 中学校で転機が訪れる。クラス委員を誰もやりたがらなかったため、思い切って立候補する。その時担任は「彼ならできると思う」と言ってくれたが、次の瞬間ざわついて会議に向かわないクラスメイトに「シャラップ」とどなる姿を見た時の担任の不安はいかほどのものだっただろうか。


 ※ADHDの子は、自分の行動モデルを漫画などのキャラクターに求めてしまうことがある。通常であれば漫画と現実の区別が付くはずの頃になっても、そこにイマイチ気付くことが出来ないのです。


 何はともあれ、中学1年の間に自分が見出した世間との対処法は「真面目でいれば認められる」というものであった。多少変わっていても、真面目であれば周囲から認められる。


 このころになると行動の多動はおさまりつつあった(授業中に口笛を吹いてしまい怒られたことはあったが)ため、授業も真面目に受けた(無論思考面の多動は大人になっても継続はしているのだが)。眠気はひどかったものの、皆そういうものだろうと解釈していた。


 ※自身の場合はASDとADHD、両タイプの特性を持っていたことが学生時代に活きたように思います。ASDの持つ真面目さ、融通の効かなさ、気持ちの切り替えの下手さとADHDの飽きっぽさ、思考の転換の速さが互いに補うことでそれなりの時間集中して授業に臨むことや、試験前に勉強をするといった行動をとることが出来ていました。


 1年の担任が部活でも顧問かつやる気のある教員で、目をつけられた感はあり、そのために中学時代は自治委員、生活委員、生徒会役員、副部長とそれなりの役職を任されながら進んだ。一方で、自身の感情制御ができないことや融通が利かないことから友人との仲がぎくしゃくする場面も増え、悩んだりもした。

 特に生徒会業務の中で会議の司会進行が全くできず当惑したことも自身の中で大きな不安として残った。周囲の発言内容はわかる。だが意図がわからない。個々の意図がわからないので、落としどころが見つからない。後高校でも同様の事態を経験し、以後会議の司会進行については強い苦手意識を持つことになる。

 中3の受験勉強の頃から指の皮を剥ぐ癖と、唇の皮を噛みちぎる癖がはじまった。


※何かに集中したいとき、精神的に負荷がかかる場面などで指や唇の皮をかみちぎる。なるべく表皮のみをむくのだが、向きすぎて良く出血した。この行動は33歳で初めて抗うつ薬を飲んだしばらくの間なりをひそめたものの、結局復活しています。

 

 高校に入る際に、自分のあり方を考えた。中学時代の反省点は、自分にあわない運動部に入ったこと、バリバリ動くメンバーに入ってしまったこと、友人と衝突したことと解釈していた。ともかく何を優先するかで考えた時、人に嫌われるのが嫌だと思った

 そこで高校は自分にあう部活で、クラスでは目立たず居心地よく、だれに対しても良い人で、を心がけることになる。jなるべくにこにこして、自分の真剣な意見は心の内にひそめるようにした。

 中学と違い、人に対してあからさまに嫌味を言ったりするようなクラスメイトはいなかったため、いつもいい人を演じられた。

 

※発達の凸凹はありつつも知能指数がある程度高かったりするケースの場合、高校になり集団の構成員がある程度同質になってきたとたん過ごしやすくなるということは良く起きる。まさに自分にとって高校はそうした居心地のいい環境でした。


 いい人を演じながら、自分にできることをもくもくとやっていると次第に人の輪の中に潜り込めるようになってくる。

 部活ではそれなりの仕事を担当し、友人ともうまくつきあい人生の黄金期を感じた。一度受け入れられると自身の衝動的な思い付きからくる突飛な行動も一種の芸と受け止められるようになり、自分は中学の頃の経験をもとにいい生き方を手に入れたと感じた。敵を作らず、誰に対してもいい人でいながら自身の居場所を築き、その後自分のカラーを出していけばいいのだ。この考えは間違ってはいないかったと思う。しかし今思えばこの頃から自身の嗜好と行動は良くない方に進みだしていたように感じる。きっかけの一つとなったのは、高校1年生の時にクラスの仲間内で開かれた公園のみだった。

 自身は酒・たばこはやらないと保育園時に誓っていたため、当日はまったく酒も飲まずにただ皆に付き合っていたのだが、そこの野外トイレに穴があいており、クラスメイトの排泄姿を見ることが出来てしまったのである。

 いい人を演じるために自分の欲求をひたすらおしとどめる生き方と、人にばれないで自身の性的欲求を満たす覗きは非常に相性が良かったのだと思われる。以後、自身の性的嗜好の1つに窃視症的なものが加わっていくことになった。


※そうしたチャンスがあったからといって誰もが窃視症的になるとは限りません。当時の自分がそれに強く惹かれたのは、思春期という時期的な影響もありますが、それ以上に「いい人でいながら相手に気付かれず欲求を満たせる」という点に大きな優越感を覚えたからかと思っています。


 大学受験に失敗し、浪人生になる。ひたすら勉強しつつたまに高校の仲間と音楽活動をする、充実した期間ではあったが、この頃から自分の思考はゆがみ始めていた。

 具体的に言えば、高校である程度自信がついたためか世間一般と自分は違う、世間一般は間違っている、自分は世界の本当の姿を見ているのに、といった思い込みが強まりつつあった。

 父はそれなりの大学に入学しながらも祖父母に振り回され自身のやりたいことを何一つやってこれなかった経験を持っており、「世間はバカだ。バラエティはくだらない。一般国民は政治が悪いがそれに気付けないB層だ」と周囲と自分を対象化することで自身のプライドを守っている感もあった。この思想はおそらく祖父母の代から続いていたものだったのだと思う。


※家族の中の神話、呪いといった思考の偏りがDV加害者や依存症患者にはみられるという情報もあります。今では自身の育った家にもそうしたものが漂っていたのだと感じています。そうした空気が無くなるのには大体3代かかるそうです。


 幼少期からそうした思想にふれていたこともあってか、自分自身もそうした見方は早期から染みついていた。その根付いた種に、青年期の自分はせっせと水やりをやってしまった。この思想はつまるところコンプレックスの裏返しである。


 いい人を演じるために最も簡単なことは自分の欲求に蓋をすることである。意見を言えば対立するかもしれない。告白すれば今の関係すら失うかもしれない。欲求はあるが、行動に移さないこと。そうやって人の顔色をうかがいながら生きる自分には自分の欲求(彼女がほしい、えらくなりたい等)のために貪欲に生きている人々がある意味で怖かったのである。 

そしてそうした想いは浪人後、それなりの大学に入れてしまったことでさらに固まったふしがある。

 そうした新しいものに挑戦する恐怖感もあり、大学時代は新しい輪を広げようともせず、自分のできること、身近な関係をなぞり続けた。自分の得意分野で成績や実績をつみつつも、どこかで浮かび上がる「自分はどうも周囲に比べて劣っている気がする」という感覚。それから目をそらすようにますます行動は狭まっていく。「俺は普通の人と好きなものや得意が違うだけだ、劣っているわけではない」と言い聞かせながらも感じる劣等感。


※ADHDの人は成功体験から得られる満足感は定型発達と大差はないが、失敗体験から得る挫折感は定型発達の人に比べ非常に強いことが知られています。大学で得意をなぞり続ける道をとってしまったことも、そうした過剰な失敗への恐れがあったのだろうと今は思います。

 

 この感覚はアルバイトをする中で特に強まった。周囲の人が当たり前にできていること、ちょっとしたホウレンソウ、書類の整理、事務的手続き、仕事の全体像の把握。それらが全く出来なかったのである。突発的なアクシデントに弱い。スケジュール管理が出来ず、発注しなくてはいけないものを発注しそこねる。客との対応は自分なりに考えてやるもうまくいかず。態度は真面目だったしいい人を演じているため表だって文句は受けなかったものの、仕事で迷惑をかけている感、役にたっていない感は強く感じていた。

 

 学業面では真面目に出席をすればいい科目を中心に選んだこと、またレポート作成は比較的得意であったため成績は悪くなかったが、計画的に物事をすすめるのは大の苦手であり、基本課題や提出物は直前に徹夜で誤魔化した。


 つまるところいかにすれば傷つかないですむかばかりを追い続けたのが自分の高校大学だったように感じる。この時期、ネット依存的になり、自分のPCとネット環境が整ったことはそれに拍車をかける。アダルトサイトにも没入し、自身のコンプレックスが性的嗜好にも影響を与えていく。表面をとりつくろいながら、そのひずみが認知や思考の偏りという形でじわりじわりと浸透していっている時期だった。いわば二次障害の種を育てた時期である。


※性的嗜好には当人のコンプレックスが投影されやすいです。女性への潜在的な劣等感の裏返しから暴力的なものを好む、等。昨今はインターネットへの依存が問題視され出しているが、インターネットの本当の恐ろしさは自身のコンプレックスや思い込みを強化する効果を持っていることです。単純にYOUTUBEが手放せない程度なら可愛いもの。

 



次回は、教員になってからの内容です。


 




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