top of page

ぬっぺふの当事者研究②


どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士でピアサポーターのぬっぺふです

どうしてもブログの内容が教員関係に傾いている部分があったので、前回からはで過去に行っていた自身を対象とした当事者研究をアップしています。


まず第1回目と2回目については、自身の成育歴を振り返りつつどのような経緯で二次障害へと陥っていくか、の分析です。その後3回目で半生を振り返っての気付きを、最後の4回目では自身のアセスメントと、発達障害およびそのグレーゾーンとはどのような辛さがあるのかについてまとめていければと思います。


では、今回は第2回、ぬっぺふの教員時代を見つつ発達障害あるあるを確認していきましょう。


※なお発達障害については困りごとは人それぞれです。私と同じような特性を持っていても環境の違いから全く困らないという方もいるでしょう。なので、あくまで私のケースを軸にした当事者研究であることはご了承下さい。


※緑の書き込みは、現在のぬっぺふからの追記であったり感想です。


 

1.教員生活編


 就職して教員となってからは、朝は7時から朝練習、午後7時に部活が終わり、その後10時頃まで職員室にて教材研究。自宅に11時に帰宅し、2時頃まで残りの教材研究を行うという生活が始まる。テスト期間中も成績が悪い生徒向けの自習室を開室する関係で土日も学校にいた。

 マルチタスクを求められる中、ミスが多発。長時間労働でごまかしていたが、土日関係なく働く中で自分の好きだったものとの繋がりがどんどん消えていっていることを感じた。その時思ったことは「3年は大変なのだ、プライベートの時間は取れないものなのだ。だから今は踏ん張り時だ」ということ。


 ※実際はいちど無茶を続ける仕事の仕方を覚えてしまうと、空いた時間に別の仕事が入ってきてしまいいつまでも仕事の忙しさは変わらず、生活サイクルは最早もとに戻せなくなってしまう面はあります。最初にどのような働き方をしていくか、そこは重要です。最初は苦労は必要でしょう。短期的な無茶も必要なときはあるでしょう。ですが、常に無茶をしなくてはならない働き方は、違います。それは長期的にあなたの良さを削っていく。そこだけは注意しておくべきですし、新人がそのような働き方になっている際はベテラン勢は気を付けて見守っていてあげる必要があるでしょう。


 日中は何かしら騒がしく学校では作業が進まなかった。部活や他にやることがあると集中できなかったり、職員室内の会話が気になったりで、結局他の教員が帰宅した後、夜9時以降にならないと作業が進まない。


 ※とくに若手の集団の大学生かのような会話、年配の教員のスポーツ談義などはもっとも集中を乱す内容で辛かったのを覚えています。きっと、楽しそうだったからひがみもあったのでしょうが。


 生徒の名前もなかなか覚えられない。覚えてもすぐ忘れてしまう。授業中は喋ったり生徒の様子をうかがうのに必死で、一人一人の顔と名前を一致させることに意識がいかないのである。


 周囲が当たり前にできている書類の提出含む事務作業、生徒との距離感などの勝手がつかめない。とくに生徒指導はルールで画一的にできるものではないため、ASD傾向の自分には加減がよくわからなかった。杓子定規に指導をすれば生徒に響かず、ゆるめすぎても集団が崩壊する。何度も生徒と衝突を繰り返す日々ではあったが、それでも授業は手を抜かず、自分なりに頑張っていたつもりだった。


 ある飲み会の席で指導教官から「教科を優先するのはこの学校においてはお前のマスターベーションだ」という言葉をかけられたことは自身のコンプレックスをとても強めることになった。努力をしていてある程度自身のある教科は否定され、要領のつかめない分野こそ教育の神髄とばかりに非難される。

 

※今にして思えば、どんな形の教員がいてもいいのです。生徒に対して自分なりの種をまいていきたいという思いさえあれば、種まきの方法は部活でも授業でも行事でもよい。

 特に、教科で生徒を変容させていく作業は種まきに近いと言えます。一方、部活で生徒を変容させるのはいうなれば躾、調教、矯正、訓練に近く、短期的にみればそちらの方が効果が出ているように見えがちです。だからこそ、部活至上主義は消えませんし、それに振り回される教科中心主義の先生も消えないのでしょう。

 生徒をみず、語りたいことだけを語るのであればマスターベーションと断じられても仕方がないかと思います。ですが、教科による種まきがしっかり出来ていれば、今の日本はもう少し違った形になっていたのではないか?とも思うのです。

 教科を軸にしたいという先生は、間違っていません。大いにその道を追及すべきです。独りよがりになっていないかは気を付けつつ。


 当時は自身が普通の人ができることが出来ず悩んでいるのは結局努力不足なのだと思いながら働いた。

 感じていたのは「どうも自分は要領がわるいらしい。ならばその分時間をかけなくてはいけない。自分が誰より頑張っている姿を周囲に見てもらい、認めてもらう(許してもらう)しかない。頑張らない自分に価値はない」という強迫観念にも似た感覚である。


 ※自身の大きな反省点は、この考えを生徒にも伝えてしまったことです。「人間、タチは変わらないが、対処は変えられる。要領が悪いなら、その分は時間で稼ぐしかない部分はあるんだよ」と。その言葉を信じてしまった生徒が今苦しんでいないか、とても心残りです。


 それでもがむしゃらにやる中でうまくいく時も出てきたりサポートしてくれる人が表れたりと環境が整い、仕事もうまく処理できるようになった、気でいた。いくつか大きな仕事もこなし、自分はやれるのだと思おうとした。


 だが、それは錯覚であり、実際はその状態を保つために食、性、さまざまなものへの依存であったり、世間に対しての憎悪であったりがバランス取りのために利用されていたように思う。風俗にも通った。人から認められたい、嫌われたくない、でも攻撃したい。自分を大事にされたい。させたい。なんでしてくれない。今思えば境界性人格障害的にもうつるし、後精神科に言われたのは「典型的なうつの症状」とのことでもあったが当時はそんなことに気付くこともなく


 こうした全てが、職場の異動と第一子出産によって花開く。

 

※人を精神疾患に追い込む可能性のあるストレス源をまとめた表があるのですが、職場の異動と第一子誕生はどちらも指数が高いのです。異動と出産が重なった方は、それだけで「ああ、自分は高ストレス群にいるのだ」という認識をもち、無茶をせずにやりすごすことが長期的には必要です。


 通勤に往復3時間車を運転する職場。毎朝5時に起き、朝食と離乳食を作り、6時前には出発し朝練へ。夜7時に職場を出て8時過ぎに家に着く。分担された家事を行い、子どもを寝かしつけたあと教材研究を行い、土日は半分以上部活で潰れる。家では生まれたばかりの子どもがいるにも関わらず。部活も自身のもっとも苦手とするサッカー部。


 前任校でできるようになったと思い込んでいたことが何一つできない。自分の存在感のないコートのはしで異物感を感じながらただ朝から夕方まで立ち続ける。

 別競技とはいえ、数年間スポーツをする生徒を育ててきたのだから、他競技とは言え生徒の何が問題で試合に勝てないかはわかる。だが、技術的な面での支えがないこともあり、言葉が生徒に響かない。何かを伝えなくてはと思い口にするも、生徒、正顧問双方の反応が怖くて、口に出さなければよかったかとその都度悶絶する。

 生徒の顔を見るのが怖い。歩き方がわからない。家に帰っても妻とギクシャクする。

 「本当に家族のこと考えているの?」「あまり弱音を吐かれると自分の選択が間違っていたのではないかと思ってしまう」。悪気があって言ったわけではない妻の言葉が脳内をぐるぐる回って、夜中に家の中にいられず夜間外出をするも酒に逃げる文化も持たず、結局川原で川を眺めていた。


 ※一度だけ、散歩の途中に居酒屋に入って酒を飲みながら知らないおじさんと話をしたことがありました。その時はなんだかとても受け入れられたような気分で嬉しかったことを覚えています。幼少期の誓いから酒・たばこをやらないを軸にしていたぬっぺふですが、馴染みの飲み屋やスナックを持つことが実は防衛線になることもあったのかもしれません。

 

 近くに生えてる草をちぎったりむしったりしながら大声で「死ね」とか「殺してくれ」とかわめいた後、「でも本当は死にたくないくせに」とより自己嫌悪を強める。カタルシスのない対処行動。


 朝、車の中で泣きわめきながら学校に向かう。なんだか体がだるい。息苦しい。左手がしびれる。のどに違和感。食後に胃がいたい。円形脱毛が起きる。寝汗でシャツがしぼれるほど濡れ、丑三つ時に目がさめる。交通事故を起こす。さらさらと言葉が出てこない。どもる。ふと先のことを考えると胸から血の気がひくような感覚をうける。血管がぴくつく。脈がおかしいが検査をしても異常がない。立ちくらみで階段から落ちる。

 そんな中自分は成長の仕方を間違えた。生き間違えてしまったという感覚を強く持つようになる。

 

 ※このあたりは自律神経の失調が身体状況に表れています。医者に行っても症状はでませんが、当たり前です。この時期、行くべきは精神科か心療内だったのです。しかし、当時の自分は精神科にも行ったもののこうした状況を全て伝えきれず、結局「発達障害の傾向はある&抑うつ状態」という軽めの診断となってしまい、「ああ、ここまで症状が出ていても自分は鬱病ではないのか、まだ頑張れてしまうのか」と思うようになってしまいました。もっと自身の感じている辛さを本気で伝えるべきだったのだ、と今は思います。


 貴重な20代の時間を自分は生徒のためと滅私に滅私を重ねて、何かを獲得したつもりでいた。だが、それは錯覚だったのではないか?ただ慣れで処理できる領域が増えていただけなのではないか?独りよがりを続けていただけなのではないか?

 その証拠にほら、皆が困った時は自分に相談してくるくせに、自分が助けてほしい時には誰も助けてくれないじゃあないか。そんな思いが胸中を渦巻く。


 何かを取り戻したくて、高校時代の友人など旧友に連絡を取る。当然、多忙な日々を送っている彼らから良い反応が帰ってくることもなく、余計に孤立感を強める。


※ストレスが高じて、他者への被害妄想へと発展してきています。いよいよ危険な兆候です。


 次第に息子がうまれて以来遠ざけていた性への依存であったり問題行動が表れだす。覚醒状態を維持するために口に何かをいれていないと運転ができない。少しの油で下痢がおきる。何を見ても気にくわない。

 目にうつるものがなぜ駄目なのか、なぜ気にくわないのかの理由を探し続ける。でもどこかでそれはコンプレックスの裏返しで自分が弱いからという結論にも気付いている。

 自分は自己中であり、幼く、発達しきれておらず、仕事も要領が悪くぬけばかりで、そんな自分が認めてもらうには人一倍頑張っている様子をみせるしかないはずなのに育児や環境の中でそれもできない。頑張らない自分には価値がなく、人前で何かを伝える資格もない。自信が崩壊しているから、前向きな指導が出来ない。生徒と笑顔で関われない。でも指導はちゃんとやらないと周りの目が気になる。


 悪循環の中うまくいかない感覚ばかりを積み上げて、その日その日をごまかしながらたまにストレス解消せねばと休みをとってみてもやる気がおきず、街に出ても、興味がわくものがない。以前なら好きだったCDや本を見る気にもなれない。結局、食か性にしか逃げ場を作れず、その場しのぎに何かを食べて風俗に行き休みと金を無駄にした感だけを持って帰路に着く。

 

※依存症は依存対象以外から得られる達成感や満足が小さくなってしまうという副作用をもっています。また、鬱病になると本来好きだったものでも興味が無くなっていくという現象が起きます。この時期は既に2つの症状を抱えていたと感じています。


 本当に会いたい人達との会合には、仕事が多忙で行けない。行きたくない人との会合は、人目が気になって断れない。友人についてラインやフェイスブックで近況は見られるが、そのたびに感じる疎外感と劣等感と羨望のまざった気持ちの悪い感情。民間企業で働き、ちゃんと土日を休み、残業代が出て、年に一度は海外へ行っている彼らの生活は数年前まで横並びでいたはずの彼らが遠い世界に行ってしまったような感覚に陥った。見ると気分が悪いにも関わらず、見ないではいられない。


 前髪が皮膚にあたる感覚が無性に腹ただしくなることが増え、衝動的にハサミで髪をざんばらに切る。髪を切る時など身体をいためつけている感覚はスッキリする。血を見るのは嫌いなので自傷は主に顔をなぐる、腕を叩きつけるといった形に収まっていたが、代わりに壊していいものはよく壊した。携帯電話は生徒との電話の最中に壁になげつけて破壊した。音に気付いて様子を見に来た管理職に「なんでもないんです」と頭を下げながら破片を拾うみじめさたるや。

 車の運転席周辺は通勤と帰路の最中に「畜生畜生」と殴り続けたためにべこべこし中の配電がおかしくなっていたし、日よけは叩きつけたせいで鏡が割れてしまいなくなっていた。 

 表向きはいい人で居続けようと、誤魔化そうとしていたけれど、日常生活の多くがゆがんでいた。やってしまった不祥事は明確にはここでは挙げられないが、なぜそれを行ってしまったのかの根本は今ならば一言で言い表せる。「八つ当たり」である。


 それまでは問題となる歪みや行動の問題がありながらもある意味で言えば誤魔化し切っていた。しかしそれも適わなくなり、結果、不祥事教員として周囲に多大な迷惑をかけながら辞めていくこととなった。


 

2.不祥事後の自己分析


 無職となってから感じたのは自分が生きてきた時間の無意味さ。

 自分は自分なりに努力を重ねて、人より時間をかけ、不器用なりに石を積み上げてきたつもりだった。でも土台が違った。他の人と違い、自分はぐらぐらとゆれるバランスボードのような土台の上に石を必死に積み上げていた。どんなに積み上げても、土台が少しぐらついただけで全て失くしてしまう。壊してしまう。仲のよい人たちとの関係も、最終的には自分から壊したり放棄したりしてしまうのだ。


 自分は一人になっていた。どうせ壊してしまうような土台なのであればいっそ自分の楽だけを考えて本当の自分勝手に生きられれば良かったのに、との思いが渦巻く。そうできず結果多くの人に多くの迷惑をかけた自分はできそこないであり、屑であり、生きている価値がない。


 そうした中漠然と思うのが「消えたい」「自分を殺したい」という感情。死にたいわけではない。死ぬのは怖い。けれど、今の不安と自己嫌悪感と向き合い続けるのは辛すぎる。ゆえに、消えたい。貝になりたい。ずっと寝ていたい。悪夢でないならば夢の中にい続けたい。また、自分が嫌いすぎるから、「殺したい」。自分が痛いのは嫌だが、自分の嫌いな自分を「痛めつけたい」。


 なるほど、自死ではなく自殺と書くのは言い得て妙だなと真剣に考えていた。血を見るのは嫌いだから身体を殴る。ベルトで首をしめてみる。土砂降りの中を傘を差さずに薄着でわめきながら歩く。自己満足だなと思ったり演技的だなと思ったりもするが、そうした行動をとっている間は心地よかったりスッキリするのだからタチが悪い。人の悪口を言っている時のうしろめたさと快感に近いものが自傷行為にはあるのだと感じる。


※時間の経過とともにそうした症状は少しずつ治まり始め、今では小康状態におちついていますが、突発的な爆発がおき子どもを怒鳴ってしまい自己嫌悪になる日はまれにあります。天候や忙しさ、便通などの体調面が土台となり、トリガーは何かのきっかけによるフラッシュバックであること、対処法としては一人になり布団にこもることなどが見えてきている状況です。

 

 その後、事情を知る数少ない友人にあった時、「生きていてよかったといえる夜を探している」という歌を歌われた。お前に捧ぐと。でもその時自分が感じたのは「生きていてもいいんだよ」という言葉が欲しいということ。

 

 未来を探す余裕はない。未来に思いをはせても「そんな夜がくるはずはない」という想いの方が強い。結局この時ほしいのはくずで何もできない人間で人に迷惑ばかりかける俺が必要とされるはずがないのはわかっているからあなたが必要とかどんな人間でも生きている価値があるとかそういうなんだかきれいごとに聞こえるものではなくてただ人としてものがそこにあることを否定されないくらいのレベルで、生きてていいんじゃないというくらいのさらりとした言葉が聴きたいというか別に自己実現とか高尚なものではなくて。

 

 ピアカウンセラーとして勤務を開始した後、精神科にてうつ病の薬を点滴してもらうことから大分精神は安定していった。薬は次第に日常化し、いらいらなども出る様になったが、それでも自己否定感の中に沈みきることはなく日ごとの切り替えはきく。でも土日あたりで不穏な日は頭がざわざわし、音がうるさく身体が重くて怒りやすくなってしまう。


 ※はじめてアナフラニールの点滴をうった時の解放感は今でも覚えています。人間の思考、気分の落ち込みなんてものは薬一つで変わってしまうものだったのか!と衝撃を覚えました。まあ、馬面のあくびが出やすくなったり副作用もあるのですが、私にとって4人目の医師にしてはじめて信頼してみようと思える医師にあたり、服薬を出来たことは僥倖でした。しかも単剤処方を軸に向き合ってくれる先生。ラッキーでした。


 やがてコロナ感染の影響もありなすべきことが無い日々が続く。日中、眠気というかだるさというかむずむずというか、なんだか不快な間隔が止まらなくなる。薬の再調整。覚醒作用の強いベタナミンを朝食後飲むようになる。これにより日中の眠気が大分改善。ほぼ寝なくなる。そのかわり、家に帰ったあとスイッチが切れる時間がある。そういう時はイライラしやすいので注意が必要。のち、双極性障害等によく処方されるリチウムを飲むことで服薬のバランスはさらに整った。

 

 ※服薬調整には時間が必要です。私の場合は丁度良い飲み合わせを探るだけの余裕が障害者雇用ということもあり与えられましたが、教員を継続しながら服薬調整をしていくのはなかなか骨の折れる作業だと思います。精神の薬を飲んでいること自体がもっとオープンにしていける環境であれば、そうした調整中は部活を無理しない、病休を活用するなどもっとバランスをとりやすくなっていくのでしょう。そのためにも職員室内に公認心理士や社会福祉士の資格者が増えていくと環境整備が進むのではないかとも思っています。


 何かのブログでADHD&ASD傾向の子を育てた人の話を見る。「ADHDは集中力が続かないのが特徴だが、ASDの真面目さがそこを抑えてくれている。互いの特徴が欠点を補い合っているから何とかなっている」という説明を見て、納得。自身の診断名は広汎性発達障害、ADHD・ASD傾向といった書き方だったが、その通りだったのかもしれない。そう捉えると今までのことが説明つきやすい。

 自分を誤魔化すのではなく、自分を知ることが大切だったのだ。そして、ささいな違和感でも原因をさぐり自身が過ごしやすい状況を作るためにどうするべきかを考えていくべきだったのだ。そうした当たり前のことにやっと気付いてくる。


 

当時の当事者研究としての過去の振り返りはここで一度終わっています。

この後は、この振り返りを元に感じたこと、わかったことをまとめていく段階となっていますので、次回はそちらを挙げてみようと思います。


閲覧数:38回0件のコメント

Comments


bottom of page