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ぬっぺふの当事者研究④



どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士でピアサポーターのぬっぺふです

どうしてもブログの内容が教員関係に傾いている部分があったので、4回にわけて過去に行っていた自身を対象とした当事者研究をアップしています。


まず第1回目と2回目については、自身の成育歴を振り返りつつどのような経緯で二次障害へと陥っていくか、の分析でした。3回目では半生を振り返っての気付きを挙げ、最後の4回目では自身のアセスメントと、発達障害およびそのグレーゾーンとはどのような辛さがあるのかについてまとめていければと思います。


では、今回はラスト4回目、いってみましょう。


※なお発達障害については困りごとは人それぞれです。私と同じような特性を持っていても環境の違いから全く困らないという方もいるでしょう。なので、あくまで私のケースを軸にした当事者研究であることはご了承下さい。


※緑の書き込みは、現在のぬっぺふからの追記であったり感想です。


 

第4回

【自身へのアセスメント(客観的な評価と分析)及び発達障害グレーゾーンとは何なのかについての考察】


1.自身に対してのアセスメント


 アセスメントとは、福祉や医療業界ではよく飛び交っている言葉でして諸情報を元にした客観的な分析と評価を意味します。簡単に言えば、雑多な情報のるつぼであるクライアントのことを印象や感想としてまとめるのではなく、ある程度根拠のある情報をもとにした分析によって具体化していくことです。本来は他者が行うものですが、ここはまあ当事者研究ということで、社会福祉士の資格をもっている今のぬっぺふが、過去のぬっぺふを分析してみようと思います。


所見

・発達障害を軸とした行為障害および気分障害にて精神保健福祉手帳3級を所持しており、過去に起こした不祥事の償いと自身の再起を目標に現在求職中の男性。

・幼少期より多動、不注意、注意の転換が難しいといった特徴は見られており、ベースに発達障害(グレーゾーン)あり。

・発音の遅れがあり、言葉の教室へ通っている。その際に行った検査では知能指数は低くなかった様子(5歳頃の検査結果によると125前後・ビネー式かウェクスラー式かは不明)

・不祥事後の精神科の診断ではADHD傾向ではあるがASD傾向も持ち合わせていることが述べられており、知的な遅れは無かったこともあいまって幼少期は問題が顕在化しなかった。

・思春期以降、周囲との違いに気付く中自己流の対処法を模索。自分を切り捨て他者に合わせていくことをくり返す中でたまったストレスの解消法としてゆっくりと依存的傾向を強めていった。他者の目線を意識し、評価を気にしていたためか境界性人格障害的な認知の歪みと操作性も一部見られていた様子。

・思春期以降、気持ち悪さとなつかしさが同時に襲ってくるという謎の減少と回転性のめまいが起きていた。前者は来る前に予測が出来ており、特徴から側頭葉てんかんの症状の可能性あり。青年期を過ぎてからは見られないとのこと。脳機能的な脆弱性は元来持ち合わせていた可能性あり。

・障害特性や成育歴から来る根本的な自信の無さと劣等感を埋め合わせようと境界を越えて仕事に励み、溜まるひずみを依存で誤魔化しながら「いい人」でいようとし続けた結果、気分障害も併発。精神科を受診しているが、DSMの判定に沿わなかったこともありその時点では鬱の可能性は否定されている。(現在の主治医からは発達障害を軸とした鬱の症状であり、衝動性の強化などはその典型との診断をうけている)

・最終的には「八つ当たり」のような形で不祥事を起こし懲戒免職となり、それを機に精神科とカウンセリングの定期受診を始める。社会福祉士の勉強をしながら就職先を探し、再就職を機に現在のメンタルクリニックへ転院。月1回のカウンセリングと性犯罪加害者のグループワーク、メンタルクリニックへの受診を行いながらピアカウンセラーとして従事。

・市の委託業務縮小に伴い契約更新がされず、無職へ。求職活動を続けながら、情報提供を目標としたHP解説と更新を行っている。

・現在は妻と子ども2人と同居中。両親は健在とのこと。


印象

・真面目で礼儀正しいが、他者との距離感の図り方等にぎこちなさがあり。知識や言語化能力には自信があるのか会話の節々に知識をひけらかすような場面がある。本人もそうした特徴は気付いているようで気をつけてはいる様子。ストレングスはあるものの、本人自身が根本的な自信を持つことが出来ていないため、所属する環境やどのような仲間と繋がるかによって力を発揮できるかどうかが大きく変わってしまう印象あり。


今後の対応

・まずは現状のHP更新を軸に求職活動を続ける。無職であることに悩み気分が落ち込む周期があるため、本人自身にその周期に気付いてもらうこと、また周期が来たときの対処法を考えて実践していくことが求められる。

・基本的に自分で考え動いていくことができる状況にあること、また家族と同居しており妻が協力的であることから協力者が強くきっかけを与える必要はない状況。本人が相談に来た時に視野を広げることを軸に関わっていく。


 

2.自己診断名


 北海道にあるべてるの家という場所では多くの精神障害者が共同生活を行っています。ここでの取り組みは一風変わっており、「勝手に治すなその病気」「病気は宝」といった発言や「妄想大会」等を開いているあたりからも見て取れます。

 そして、べてるの家では各自が自身の病気についての当事者研究を行うとともに、自分の診断名は自分でつけるという点も特徴です。

 そこで、ぬっぺふも自分の診断名を付けてみようと思います。

 医師から渡された診断書には「広汎性発達障害(ASD+ADHD傾向)」と記されているのですが…さてどうしたものか。

 ぬっぺふの場合ならば「発達障害に起因する行為障害および境界性人格障害(軽度)」あたりでしょうか。もっとふまじめにいくなら「思考ぐるぐる自己否定病・依存で支える型」とか?

 まあ4人目のドクターからは「発達障害を元にした典型的なうつ病」とも言われました。すっきりと全部病名つけて整理はできんということでしょう。病名、診断名は現象の切り取り方に過ぎないからです。

 でも、だからこそ、べてるの家で行っている「自己診断名」は、自分で自分を定義するという意味で前向きな何かを感じます。医師から与えられた診断名に納得がいっていない方は、ぜひ自己診断名、つけてみてください。



 

 ここまで長い自己の振り返りをしてきましたが、もし貴方が「なにか生きにくい」「なにか辛さがきえない」といった悩みを抱えている場合、こうした自己の振り返りから見つかるものも多いとは思うのです。当事者研究、重要です。

 ただし一人でこの作業をするのはなかなかに辛いもの。できればカウンセラー等の専門職の協力のもとやっていけるといいのかとは思います。


 

3.自身の症状についての分析(暴力との関係)


 

ここからは自分の症状全般ではなく、とくに暴力との関係について分析していきます。

 昔教員時代に精神病院に行った際は食欲も性欲も睡眠欲も強かったのです。身体症状としては明らかに鬱の傾向が出ているにも関わらず。そのためうつ病とは診断されずホッとした反面悲しかったのを覚えています。

 病ではないのであれば、今の自分の出来損ない感はなんなのだろうか。つまり自分という人間は未成熟であり全ては自業自得ということか。そんな考えが頭の中を渦まきました。

 抑うつと違い依存で対処を図っている場合は欲求そのものはおさまらないのです。それで自我を維持しているのだから。

 また、判断能力が消えているわけじゃないからリスクは最低限さけたりできるわけです。人を殴ったりしてはいけないことは判断できる。ただ、どうにもとまらない。頭の中では思考がぐるぐる。なんだか落ち着かず依存物を求めるも、満足することなく。その結果が他害行為へと行きついた


 こうした他者の目線を気にするタイプの行う暴力行為の行きつく所は大体同じ所だそうです。1つはばれないように行う暴力行為。盗撮、痴漢、ネット上での誹謗中傷、相手の私物を壊す、等ですね。そしてもう1つは自分よりも弱いものに暴力を向ける。本人にそれなりの地位があるなら部下へのいびりという形ででるかもしれませんし、部活顧問であれば部員しごき、体罰が起きるのかもしれません。そうした場を持たない人の場合は、家の中で配偶者や子ども達にあたるのでしょう。お分かりかと思いますが、こうなればDV(家庭内暴力)となってきます。性犯罪とDVは形式としては似ているのです。教員の不祥事の多くがこの2つに近い形で起きるのは、似たような性格・特性を持っている方が不祥事教員へとなりやすいからという理由もあるかと思います。

 おそらく、基本的にはまじめ。熱意をもって取り組んでおり、自分の評価を気にしている。仕事に関しては滅私奉公的に打ち込む面があり、学校外との繋がりは希薄(あっても部活顧問の繋がりなど)。自分より強いものについてはなかなか逆らうことができない。基本的にはいい人に見える。

※そのうち不祥事教員診断なんてのを作ってみるのも面白いかもしれませんね

 だからこそ、何かが起きた時に「まさかあのひとがそんなことをするなんて」と言われるわけです。


 なお、外面的にいい人を演じている場合の暴力は必ず本人よりも弱いものに向かうという形式は、子どもでも同じなのでしょう。世間を騒然とさせた少年Aの殺人事件。彼や父母の書いた手記を見る中から見いだせるのは、彼の暴力はまず小動物の殺害からはじまり、最終的に知的障害をもった年下の少年へと向かっています。

 

 タチが悪いのは、人間はこうした行為を自分なりに合理化してしまうところです。たとえば盗撮であれば「ばれなければ誰も傷つかないのだ」、痴漢であれば「本当は求めているのだ」、部員へのしごきであれば「部活の中で理不尽に見える指導に耐え、精神的に強くなることが必要なのだ」、子どもへの暴力であれば「これは躾である」等です。


 私は、盗撮などの性的な行為に限らず、いわゆる「暴力行為」そのものも依存の対象となるのだと思っています。なぜなら暴力を振るうことと性的な欲求を満たすことはどちらも相手を支配する(自分が上位にいる)と確認する行為であり、大きな快感が伴うものだからです。

 この目線を持つと、職員室にいる暴力的な先生や、クラスにいる暴力的な生徒の背景も見えてきます。彼らは自身の立ち位置を確立するために「暴力」を使うことを覚えてしまった暴力依存者です。背景には彼が暴力にたよってでも自分を周囲に認めさせざるを得なかっただけのコンプレックスや環境が存在するはずです。そのコンプレックスや環境的要因をひもとかないかぎり、心の渇きを満たさない限り、外圧でとどめようとしても改善は難しいでしょう。


 

4.発達障害についての理解 


 よく私が言われるのは「発達障害と言っても普通じゃないか」という言葉です。「本当の発達障害は君とは全然レベルが違うよ」という言葉を自称わかっている方が唱えることもあります。しかし、発達障害は能力に凸凹があることが特徴。自分の状況は凹を目立たせないよううまく凸を使っているだけであり、根本的に崩れやすいのは変わらないのです。

 そして、発達障害は凸凹の強さではなく、現在本人がその特性からくる悩みを抱えているかどうかが判断基準となります。そういう意味で先述した自称わかっている方の発言は、的外れでもあるのです。


 以前別の記事でも挙げましたが、イメージするならば、発達障害は凸凹のタイヤをはいた車です。症状の重い人は凸凹タイヤのまま日々を生きており普通に移動するのも難しい。軽度の人は長年の経験の中で凹の上に被膜を張る方法を覚えます。この場合、通常の道ならばふつうの車と同じように進んでいくことができる。しかし急なカーブやでこぼこ道に出くわせば被膜は破れ、すぐに通常運転ができなくなる。



 そうなった時は、ブレーキを踏めばいいのです。その後ゆっくりじっくり進んでみたり、JAFを呼んで助けてもらえば何とか難所を越えられます。そして軽くリペアの時間を取れれば普通の道を進み出せるはずなのです。

 しかし、発達障害の車は運転手も焦りっぽい。ぐらぐらすると原因がよくわからず、「早くこの怖いところを抜けたい!」と思ってアクセルをふかせてしまったりする。結果、車はあらぬ方向へ…


 こうした日々が続くも、運転手は車の方に問題があることに気がつけない。そこで「俺が下手くそなんだ」「俺が運転に向いていないんだ」「俺は役立たずなんだ」という思いに苦しむことになる。次第に自己肯定感や自尊心が傷つけられる中、人はなんとか気持ちの立て直しを図る。「努力がたりないからだ!」と人以上に頑張ってみたり。「俺はすごい人間なんだ!」と幻想に逃げたり。「周りはずるい!」と怒ってみたり。酒や女、ドラッグ、万引き…達成感や脳内麻薬を手軽に得られるものを使ってみたり。暴力で自分の立ち位置を確認する方も無論いるでしょう。そしてそうした逃げ道を持てなかった人は「俺は生きている価値がないんだ・・・」と落ち込んでいったりする。

 これが発達障害を起因として起こってくる二次障害なのでしょう。おそらく似た感覚は軽度知的障害の方も持っているのではないでしょうか。


 ぬっぺふの場合は学習障害が無かったために学校生活は乗り越えられた。結果、学生生活中は学校を離れ外に飛び出して…とはならなかった。だがもし特性から学習が苦手、集中できない・・・といったケースだった場合は、学校で否定ばかりされてしまうと逃げ場がない。対人関係を結ぶ力がある場合、夜の街に繰り出す可能性が高まります。一方、人付き合いが苦手な場合は夜の街に逃げ出すこともできない。結果一番安全な部屋の中にひきこもることになってしまう。


 たしかに発達障害含む軽度な精神障害は、重度知的、重度身体などで苦しんでいる人からすれば「健常者」に近いのかもしれません。

 しかし、それゆえに彼らは「健常者」を演じるために無茶をする面があります。過剰な適応、過剰な攻撃、過剰な心配…そして時にそれは自殺に繋がったり、他害行為に繋がったりする。

 他害の際には、重度知的・重度身体に比べ頭脳は働くし身体は動くため、悪質な事件を引き起こすこともあります。というのも、自分が打ちひしがれている時に脳内で妄想のように犯罪計画を繰り広げるのは一種の現実逃避のファンタジーなわけですが、繰り返したファンタジーは具体性をおび計画へと変わっていって しまいます。そして、「今ならやれてしまう」という状況が整った時。「ここまできたらやるしかない」と本人を突き動かすものになってしまう。


 発達障害や、精神障害の方が犯罪を起こした時、それは彼らの障害特性ゆえに起きるものなのではなく、自分の苦しみの原因が何かわからない中、なんとか自分を保とうともがいた結果、社会の中に居続けようとした結果、事件という形でそれまでの歪が表に出てしまうものとも捉えることができるかと思います

 このシステムは健常者も同じではないでしょうか。自分ではのっぴきならない問題に立ち向かう中気付けば袋小路に迷い込むように犯罪へと進んでしまう。発達障害や精神障害は健常者よりこうした悩みに陥るきっかけが多くあるというだけのことなのだと思います。


 例え話をしましょう。

 腕が1本しかない人100人と腕が2本ある人100人が海に投げ出されたとき、特種な訓練でも受けていない限り腕が2本ある人の方が生き残るでしょう。我々は学校で腕一本しか使わない泳ぎ方は教えてもらっていません。

 では、腕が1本しかない人は溺れる確率が高いから、海に入ってはいけないという命題は真であるかと問われれば、答えは否。浮き輪をつける、脱力方法を学びひたすらうき続ける、特殊な訓練をうける…そうしたサポートがあれば腕が1本しかない人でも100人浮かび続けることができます。


 おそらく同じ人数で比較すれば軽度知的、発達障害的傾向、精神障害を抱えた人間が問題を起こす確率は健常者より高いのでしょう。正しい診断や通院が出来ていないからこそこじらせるわけなので表向きのデータには出てきにくい面はあるかとは思うのですが。

 でもそれらが、自身が腕1本しかないことを知らないまま社会という大海に投げ出され、さんざんあがいた後「どうせ溺れるなら一人は嫌だ!」「何とか助かりたい!あの人につかまってでも…。なんならあの人を殺すことになってしまっても死ぬのは嫌だ!」と最後のあがきをした結果なのだとしたら、自分勝手な考えには違いないとしても、捉え方は多少変わってこないでしょうか。特に後者に関して、この思考法自体は許されないものなのでしょうか?


 無論、これは例であり現実の犯罪は正当化されるものではありません。犯した罪は罪だし、責任能力があるのであれば償いは必要。しかし、押さえておかなくてはならないのは、「本人にとってはそうせざるを得ない状況であり、正当化されてしまっている行為」を「やったら死刑だよ!」の厳罰化で防ぐことができるのだろうかということなのです。厳罰も排除も、こうした犯罪を減らせない。むしろ逆効果となる。「どうせ死刑になるなら大きなことを…」と思考する者を増やすだけなのではないでしょうか。


 

5.まとめ


 発達障害は障害者の中では軽度と思われがちです。また、定型発達の方からは「甘え」としても捉えられてしまうことがあります。ですが、その軽度ゆえに、凸凹ゆえに、彼らの苦しみは大きいものになるとも言えます。

 頑張っているのに追いつけない。頑張っているのに報われない。頑張っているのに認めてもらえない。そうしたことの積み重ねの中で二次障害へと繋がっていく。


 私の持論ですが、人は3つのタイプがいるのだと思うのです。ストレスや疲れが蓄積したときに①体に直接来るタイプ②精神に来るタイプ③依存で誤魔化すタイプです。それぞれ放っておけば大きな障害に繋がりかねません。そして発達障害者はそうしたストレスや疲れを定型発達の方に比べ抱え込みやすい生き方をしているといえます。


 そう考えると、発達障害は万病の元となりうるものであり、早期にその特徴を掴んで対応を学んでおく必要が重要になってくると思うのです。


 現在日本はほとんどの職業がサービス業と化し、他者とのやりとりがいかにうまくできるかが必要な能力となっています。また、支払一つとっても現金だけだった過去にくらべ様々な支払方法が現れており、便利になったからこその煩雑な手続き、覚えなくてはならない手順が多くなっている時代でもあります。いずれも、発達障害を抱えた人にとってはストレスを抱えやすい環境です。

 発達障害は能力の凸凹なので、凸を上手に活かすことができる環境下であれば大きな活躍をすることができる強みがあります。そしてそのためには自分の凸を活かす働き方を探ることが大切ですし、何より自分のことを分析する当事者研究を「何かが起こる前に」しておくことが大切です。

 本来はこうしたことこそ初任者研修等で時間をかけて対話を行いながらやっていくことが求められるのではないでしょうか?私はそうも思うのですが、皆さまはどうお思いですか。



…ということで、4回にわたった当事者研究は一度この辺で幕をおろします。全てのことはつながっているものです。幼少期の過ごし方、家庭環境、働き方、異性との関わり方、好きな映画、音楽…貴方が不祥事教員予備軍であっても、そうでなかったとしても、一度時間のあるときに自分自身を分析してみるのも面白いかもしれません。そのときに、「ああ、そういえばぬっぺふとかいうやつがこんなことしてたな」と思って頂けるなら今回だらだらと記事にしたかいもあるというものです。


では、とりあえず今回はこのへんで。



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