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アクティブラーニングについての一考


 どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士でピアサポーターのぬっぺふです。

 昨今アクティブラーニングが至る所で推奨されています。一方で通常の講義型授業にも魅力はあるという意見も。皆さんはどのように考えながら日々の授業に臨んでいますか?


 こうした流れが進んだ背景には時代の変化に伴い「単純な知識量を問うのではなく、知識をどう活用するかを伸ばすべきだ」(知識はネットで検索できるし…)といった経緯があったわけですが、まあ極論を言えば反転学習含め、基本は教育がうまくいってそうな国からの受け売りです。まだまだ日本独自の形にたどり着いたとはどうも思えない。

 私自身も現役教員時代には書物や研修で学習をしましたが(一応熱血教員だったので)、どうにももやもやが止まなかったのを覚えています。


 そこで最早教育現場から離れた身ではありますが、アクティブラーニングについて当時思っていたことをまとめてみようと思います。

 では、行ってみましょう!





 

1.アクティブラーニングでは全員が主体的に学習する…?


 そんなあほなと思っていたのが正直なところです。課題設定にもよると思いますが、大体の場合は小集団にて調べあい、話し合いを通じて発表という流れが基本となるはず。その中でかならず起きるのが「集団の中での役割の分化」です。気を付けなくては一部の高知能の生徒に集団が依存し、追従することになってしまう。

 当然、発表、記録、それぞれに役割をもたせローテーションを組むことで各自の取組に集中させることは出来るかと思います。ですが、根本的に重要な部分、「わかった!」というAHA体験といいますか。脳内でどれだけ思考し、「なるほど!」と納得できたか。そこに至る論理的思考についてはどうしても一部生徒の独壇場になってしまうのではないかという疑問がありました。


 例えばディベートのように、答えの出ないものを思考ゲームのように扱う活動であれば様々な生徒の様々な意見が光るのではないかと思うのです。

 ですが、少なくとも私が書物等で漁ったアクティブラーニングは「教科書的な知識を活動を通じて身に付けていく」というのが基本路線となっており、いわば正解がある程度存在する中での議論・活動となっていました。


 「なんだかおしゃかさまの掌の上の孫悟空だな」というのが正直な感想でして。目的地が決まっていれば自然とリーダーが決まり他の者はそれに追従する形になりやすいのは道理かと思うのです。具体的にいうと、中学校でアクティブラーニングを実施した際、進学校に進むような生徒達の活躍をぬきに集団がちゃんと機能をするか?という点も疑問でした。


 活動型の授業は昔からありました。その中でもっとも避けなくてはならないのは「活動あって中身なし」という状況だと言われていました。

 たしかに表向きは話し合いが行われ班ごとに活動がなされている。が、実際は一部メンバーをのぞいては思考停止状態でも「やった感」だけは残ってしまう。そうした側面はアクティブラーニングには無いのだろうかというのが気になってしまうのです。


 何かで聞いた話ではあるのですが、アリの巣の中には常に7割の働く蟻と3割のさぼる蟻がいるそうです。そして7割の蟻だけを選別し別集団を作ってもやはり3割はさぼりだす。逆に3割のさぼる蟻のみを集めた場合は7割は働きだすという…

 グループ割を工夫することでこうした普段活躍できない生徒に中心になる経験を積む…思考の経験をさせる…それを目的とするなら多少納得はいくのですが…


 私が読んだ著作ではアクティブラーニングでは通常の座学と違い主体的な行動、目的に向かって仲間と試行錯誤する協調力なども育てられるというのですが…

 読んだ当時の私の感想は「ああ、アクティブラーニングってのは要は授業の部活化なんだな」というところでした。そして次に思ったのは「なら、既存の行事や部活動(これは今いろいろ問題にはなっていますが)などの中で養えるじゃーん」という感想。実際はどうなんでしょう…?



 

2.知識の定着量もアクティブラーニングの方が多い…?


 凡百の研修では、「受動的な講義型では2割程度の定着率。でもアクティブラーニングなら7~8割の定着率!だから知識の定着量も講義型より上!ヤッタネ」と謳うわけですが、本当にそうでしょうか。

 ぬっぺふとしては、そもそも母数となる情報量に圧倒的な差があると思うのです。

 無論、数学や理科の実験、英語の文法など特定の分野でならば情報量よりも感覚をつかむ方が大切なのかもしれません。そういう場面でならアクティブラーニングの重要性もわからないでもない。ですがこと社会科、保健、家庭科等の知識ベースの科目ではどうでしょうか。

 

 例えば講義型で伝えられる情報量が100だとすれば、アクティブラーニングで伝えられる情報量は頑張っても20程度ではないかと思うのです。

 そう考えると、授業を終えた生徒に定着する情報量は

(100×0.2=20)>(20×0.7=14)です。

 実は講義型の方が定着する情報量が多いのでは…。


 無論今の数式はぬっぺふに有利な前提で組んだものなのですが、ともかく情報量の少なさはネックです。大学受験が今の知識偏重型から変わってくるというのであれば情報量がへろうがなんだろうがカバーできる面はあるでしょう。ですが、実際はそうはなりきらないと思うのです。

 なぜなら「知識量」のない「思考力」は「学力」としてはやはり低レベルなものになりがちだから。大学教授はそれを理解していると思います。



 

3.アクティブラーニングは思考力を磨く…?


 思考に慣れはするでしょう。ですが磨くかというといかがでしょうか。

 …というのも、アクティブラーニングでは知識も伝えなくてはならないために完全自由なディベート型というよりは、作られた障害物競走を走らせるような利用法が軸になっています。

 障害物を乗り越えるための材料はさながらゲームかなにかのように既に与えられているか、コースの周辺に散りばめられているのです。それを目ざとい生徒が見つけ出し、皆で「これをこう使えば脱出できるぞ!」と乗り越えた所で、それは本当に人生という冒険に役にたつ力と言えるのでしょうか。


 思考力とは頭の中に定着している知識というレゴブロックを組み合わせて新しい何かを生み出す力です。

 最初からセットになった知識を学ばせ、それを設計図にそって組み立てる経験は真の意味での思考力とは言えません。

 どうもアクティブラーニングはそうした教員の用意した障害物競争を生徒達がシナリオ通りに乗り越えていく力を養うだけに終わってしまうのではないかという不安がぬぐえないのです。

 

 そうして手に入った思考力では結局、ネットを使って手に入れた情報のつぎはぎで文章を作る程度がせきの山。それはそれで一つの力ではありますが、真の思考力とは言えないような気がします。

 蓄えた知識が脳の中に沈殿し、発酵し、そしてある瞬間に全く予想もしなかった形で結びついていく。これこそが真のAHA体験であり、本来教育の目指す思考力なのではないのでしょうか。そう考えてしまうのは私が古い頭を持っているからなのかもしれませんが…


 知識が全てとはいいません。ですが、知識を重視せず小手先の思考力や協調性を磨いたところで、出来上がるのはそれこそ国会でのらりくらりと答弁をする政治家のような存在なのではないか。他人のふんどしで語るYOUTUBERのような存在しか生み出せないのではないか。それが私の懸念事項なのです。

 

3.発達障害や軽度知的障害の子にとって辛い時間となりうる


 そしてもう1つの懸念事項です。アクティブラーニングは習熟に差のある生徒達に同じ課題に向かわせる中で「教え合い」が発生することを売りとしています。それはとてもステキなことだと私も思います。ですが、一方で発達障害や軽度知的障害の子ども達の中には他者と話し合いをするということがそもそも苦手な子達もいます。また、教え合いは素敵なことですが、課題設定の内容しだいでは「教えるもの」と「教えられるもの」の役割が固定化してしまう。そうなると学習に課題を抱えた生徒は、本来ならば同格であるはずの同級生に毎回毎回「指導される」という経験を積むことになってしまう


 これを素直に受け止められるのであれば、それもいいと思うのですが、こうした役割の固定化が彼らの中の「俺はやはり周囲より劣っている」という感覚を強化してしまわないか。そのあたりはデリケートな問題かと思われます。


 それこそ答えの決まっていないディベート等であれば、彼らも斬新な視点から周囲を驚かせる意見を言うことも出来ると思うのです。ですが、現状日本が推奨しているアクティブラーニングは最終的な答えは決まっています。その予定調和のコースの中で彼らの自由な発想をいかしきれるのかどうか。これはなかなかの難問です。当然アクティブラーニングの第一人者とでも言うべき方々であればそうした問題全てを解決し、生徒の能力を大きく高めるような授業構成が可能なのでしょう。ですが、それは果たして全ての教員に可能なレベルの内容なのか?…そのあたりは議論が分かれるところではないかと思います。


 

4.講義型授業でも生徒の思考は促せる


 私の経験上、40人教室で講義型授業をし、全員に思考をさせながら授業展開をするのはかなり難しいと感じます。まず、集団の空気感が作りにくい。

 ですが、20人程度の小規模集団であれば、いわゆる講義型授業でも十分に彼らの脳を揺らすことは可能だと感じています。その程度なら、私程度の教員にもできました。


 上手な講演を聞いた方はわかるかと思うのですが、本物の講師はただ人前で話しているだけに見えて沢山の問いかけを聴衆にしています。そして聴衆は脳内でその問いかけに対する答えを思い浮かべたり、人によってはそっとつぶやいてみたりする。

 つまり、外的には一方通行にみえて、内的には対話の形式がなりたっているのです。その発問の投げかけ方、聴衆が答えをイメージできるようそれまでに材料を投げていく講演内容の構成術、そしてちゃんと聴衆の脳が動くのを確認しながら双方向的に話を進めていくリズム感。それらは当然意識して磨かねば身につかないものなのですが、元々得意分野であったものを語るのですから、教科の時間に部活動のエキスパートとして集団を掌握するよりは向いている先生はいくらでもいるように思えます。


 本当に授業が上手な方からは100どころか1000の知識量の伝達と、その授業を通じて50分フルタイムでの内的対話が起こるものです。

 私は、下手に授業を部活化して本来教科で磨くべきものとされていなかった能力育成も授業内で…と漁夫の利を狙って共倒れとなるよりは「教員の教材研究の時間を確保」し「少人数授業体制」を作り、「真の講義型授業」を中心に生徒に知識を伝えていき、要所要所でディベートのような答えのでない討論形式で自由な思考力を発露してもらう方がいいのではないか?と思ってしまうわけです。

 無論アクティブラーニングが性にあう方はそちらのプロを目指せばいい。ですが、知識の伝達における形式の中で「質の高い講義型授業」という選択肢を学校現場から捨ててはいけないような気がするのです。


 

5.最後に


 最後に暴論を吐いてみます。

 協調性やプロジェクト達成能力なんてのはそれこそ軽視されがちな学校行事を有効活用すればいいのではないでしょうか。全員に英検なんぞ受けさせなければ学年費はうん百万あまるのです。その豊富な資金を使っていくらでも独創性のあるプロジェクトを立ち上げていけばよい。


 それこそ一部の生徒の活動で終わってしまうという声はあるでしょう。最初はそうなるかもしれません。何事も火種は小さい所から始まります。しかし、生徒は「面白そうな取組」はちゃんと見ています。そして自分達もそれをやろうとしていきます。文化祭でコーヒーカップを作る学校が増えました。それはなぜかと言われれば、どこかがやっている様子をみて「面白そう」と思ったからでしょう。

 小さい文化の火種を数年かけて大きく育てあげ学校の文化・特色としていく。その中で生徒の協調性、プロジェクト達成能力、企画力、様々な能力を養う機会を設定していけばよい…かつて熱血教員として行事を軸に学年や学校の力を高めていくということをモットーにしていたぬっぺふとしてはそんな夢を抱いてしまうわけです。


 無論、そうした行事含む特別活動を活用していくために教員が滅私奉公しなくてはならないというのであれば大問題です。それを進めるためには、結局「教員の余裕」をちゃんと確保することが大前提となるでしょう。

 

 どうもアクティブラーニングの背景には本来やるべきそうした環境面の整備を見てみぬふりをして、本来教科で育てるべきではなかった力まで教科に…つまり教員に丸投げしているように感じてしまうのです。


 私は大分うがった考えを持っていますし、そもそもアクティブラーニングについて学んだのももう数年前となっています。だから現在素晴らしい形でアクティブラーニングを実施している先生方の努力を否定する気は毛頭ありません。ただ、講義型の授業にも未来はあるのではないかということ、そして真の思考力のためにはやはり知識のつめこみも重要であるのではないかということだけは伝えたくて今回筆をとりました


 知識のつめこみというと印象が悪いですが、それこそ詰め込み方を工夫することで印象はかわります。意味もわからない人物名を丸暗記させるのも一つの詰め込みですが、図書室につれていってひたすら興味のある本を読ませるのも詰め込みです。演劇の脚本を考えさせるため18世紀の世相や文化について徹底的に調べ上げるのも一種の詰め込みです(これはアクティブラーニングよりなのかな?)

 そういう意味では詰め込みを苦にならない形で行うためのアクティブラーニングであれば私の懸念は雲散霧消するのかもしれませんね…。

(おそらくクイズを作って出し合うなど色んな工夫を色んな先生がしているのだとは思いますが…)

 最後に1つ。アクティブラーニングも反転学習(インターネット上で先に知識の詰め込みを行っておき、教室では議論など思考面を中心に生徒を伸ばしていくアメリカ発症の学習スタイル)も、日本の教育土壌とは全く違った文化の中の産物であることは忘れずに置いた方がいいかと思うのです。

 アメリカでは宿題が大量にでますし、それに対する生徒の義務感も日本とは違います。だから反転学習が成立する。それはなんだかんだいって学習の価値を彼らは見捨てていないからなのでしょう。


 では日本はどうか。かつて日本では「ノンポリは生きられない」といわれた時代がありました。政治について自分なりの思想をもっていない者は人として軽視される…そんな時代です。この時代の高校生は意味はわからなくとも「ドストエフスキー」を読みました。仲間と議論を交わしました。なぜならそれが格好良かったし必要なことだと感じたからです。

 今の日本は逆です。今は「ノンポリでないと生きられない」のが教室の中の実情でしょう。昔生徒に言われた言葉がとげのように刺さっています。「今の教室ではゲームをやっているより本を読んでいる方がオタクっぽいんだよ」というものです。

 政治について語ることは大人間ですらどこかタブーとなっており、それは仮にもインテリゲンツィアであるべき教員でさえ同様です。日常の中で哲学や政治の話なんぞ出した日には「すごいね」と引き気味の笑顔で返されるのが落ち。

 

 この国の学力低下、思考力低下を招いたのは講義型授業のせいではなく、「質のいい講義型授業を作る余裕を教員に与えてこなかった」こと、そして「学習に意義があるという風潮を戦後70年以上かけて壊してきてしまった」こと、その2つが大きいのではないかと私は思っています。


 …話が政治的になってきたのでそろそろ終わりにしようと思うのですが、どんなにアクティブラーニングを推し進めても根本にある2つの問題点、「教員に余裕がないこと」と「社会が学習に意義を見出していない(むしろ憎悪している人もいる)」という状況を改善しない限り、結局教員の負担増でおわってしまうのではないかと思っているというのが最後のまとめです。

 好き勝手書きましたので、反論はあると思いますが・・・いかがでしょうか。私は気持ちよかったですが。

 不祥事教員ではありますが、元教育を憂いたはしくれとして、生徒も教員もゆとりをもって知の交流を楽しめるような、そんな授業が今後も学校で展開されていくことを祈っています。では、またいずれ!

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