
どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士でピアサポーターのぬっぺふです。
2025年3月8日(土)、渋谷での月一回のカウンセリング&性犯罪加害者のグループワークに参加してきました。そしてその後は池袋にて「不祥事教員および予備軍のための座談会」開催。忙しさにかまけ、こうした機会に得た気付きを共有せず終わってしまわぬよう、備忘録がわりに書き記しておこうと思います。
1.性犯罪加害者のグループワークで思ったこと
・ぬっぺふの中には思春期の少女への過度な「憧れ」が存在する。幼少期、親族がほぼ全員女性でそうした世界観で育ったことも関係しているかもしれない。
憧れは思春期に「神聖化」へ変わり、大人になってからは理想像と現実の差から「偶像が崩壊」、今度はミソジニーをこじらせていった。そうした自分にとって宮崎アニメに出てくるような天真爛漫とした少女像はまだ壊されていない偶像なのだろう。
・ロリコンは相手を支配しやすいと思うからそこに惹かれるというのは事実とは思うが、本人のストーリーは違うような気がする。
まず、彼らは「大人の世界」に帰属感を得られていない。思春期のどこかに何かしらのやり残しが残っており、結果心の中に「少女と同年齢の自分」を飼っている。
彼等は大人に擬態しているがため、大人との人間関係においては常に背伸びを強いられる。しかし、対少年少女の場合はそれが少ない。「安心感」を感じるから素のままで話しやすく、素のままで話せるために過度に自身の「理想を少女に投影」し、本来子どもであるはずの少女のおしゃまな行動に「精神の成熟性」を勝手に見出す。
心の中で少女を「精神的には大人」と格上げすることによって本来の大人と子どもという非対称な力関係を「人間としての対等な関係」と正当化するのである。手を出すかどうかは別として、いわゆる「少女に無性に心ひかれてしまう人間」が少女に恋をするときにはこうしたメカニズムが働いているのではないか。
この場合、少女と適切な場所、距離の中でやりとりをする中で「ああ、この子の大人びた対応は背伸びであって、本質はまだまだ子どもなのだ」と気付くことがある。すると相手への幻想が消失し、性的な妄想も霧散する。
現代において異年齢の集団と共に遊ぶ経験は非常に少なくなったが、とりわけ異年齢の異性ともなると皆無といっていい。こうした関係性の希薄さは「妄想」を生む要因となっているように思う。
※無論、閉鎖的な場所における異年齢の異性との関係性は「グルーミング」にもつながりやすい。幼少期に性加害を受けた人々の多くは「身内」から被害を受けていることも考えると関係性が高いがゆえに起こるリスクもある
・グループワークに参加した性犯罪加害者はもれなく「職場の女性とどう関わるか」について悩みを抱えている。性犯罪加害者だから…というよりも根本的な問題として「人に嫌われないようにしたい」という心と「男性性の主張を避ける」傾向が共通しているために、女性と男性の板挟みになってしまっている印象がある。
※今回のグループワークは痴漢や盗撮しかいなかったためかもしれないが・・・
・自分がなりたい自分の中に「犯罪者」は入っていなかったはず。なのになぜこうなっているのか?という問が印象的だった。なお、この問への答えはぬっぺふの中では出ている。後述する。
2.個別面談で思ったこと
グループワークのあとには担当のカウンセラーとの間で面談が行われる。そこで思ったこと。
・先の問への答え。実は自分がなりたい自分になっているのではないか。
シンプルに言えば、自分の中の天使(=フロイトでいうところの超自我)は「いい人」を目指し、自分の中の悪魔(=無意識)は「欲望の充足」を目指した。両方を総取りできる可能性があった行動を取った結果が今である。
誰にでも好かれるいい人をやるためには切り捨てなくてはならない要素がある。傲慢さ、性的奔放さ、シンプルに自分の時間…
無意識はそれらを全て引き受け溜め込むが、限界が来た時囁いてくる。「本当はお前はこうしたいんだろう?」と。そしてその囁きに負けた部分がトンネルのような状態になり、溜め込んだドロドロを放出するバイパスのようになってしまう。我々性加害者にとってはそのバイパスとなる部分が性的興奮であり、痴漢であり、盗撮であった。
・以上の考えは、アドラーの考えに近いのかもしれない。私はアドラーは使い方次第で「全て自己責任だZE」となってしまうため「アドラー大好き!」という人間とは少し距離をおいてしまうのだが、「誤った行動も、それは自身の置かれた状況で生きていくために脳が生み出してくれた対処法としての側面があったのだ」という言い方であれば素直に頷ける。
・自身の無意識の存在を受け止められるようになっていない時期は「なぜこんなことを?」がわからない。天使か悪魔のどちらかを自分の本質として考えてしまう。けどそうではない。天使も悪魔もひっくるめて自分なのだという視点に立てた時、真の自己分析が始まるように思う今日この頃。
・家族に連なる呪いについて。昔から一度崩れた家が元に戻るには3代かかる…という言葉があったそうだ。自身の家系をさかのぼるにそれも頷けるのだが、それをカウンセラーに伝えた所面白い話を伺った。
カウンセラー曰く、ラットに特定の行動に対して電気ショックを与えた結果、その影響は7代あとの世代まで見られたという。これは興味深い話だ。
この話を聴いたとき、私はプラナリアを思い出した。プラナリアは体を切断してもそこから再生し分裂する。面白いことに母体になるプラナリアにある学習をさせると、分裂後のプラナリアもその学習の成果を引き継ぐそうだ。
これらから導き出されるのは、人間の中にも脳だけで解決できない「学習」があるのではないかという点。ラットやプラナリアの例は遺伝子レベルでの学習。いつかまとめたいと思っている「ポリヴェーガル理論」は「神経回路」が人々の行動に影響を与える理論。他にも、身近な所では腸内を健康に保つことでポジティブに…というものもあるだろう。これは「腸」が脳に与える影響だ。生命の基本構造では脳よりも腸が根源的であるとされ、腸は第二の脳とも言われる。
上記の例からもわかるように、脳は重要な器官ではあるが、人間の全てではない。しかし、昨今は脳に全幅の信頼がおかれるがゆえに自分の意思ではどうしようもない「身体」に刻み込まれた行動様式までもが「脳」、あるいは「意思」で支配できると思っている人が増えてしまっているのかもしれない。
家族の呪いは、「脳」にも作用するが「遺伝」からも人を縛る、思ったより広範なものであるのかもしれない。それらとどう付き合っていくのかは大きな課題だなあと感じる。
・最近は自分は次の世代の肥やしになればいいと思える瞬間がある。この視点に立った時、自分がなすべきことは自身の回復と自己実現のみではなく、先述した家族の呪いを断ち切ることにもなってくる。自分に手一杯になってその代償を子どもやパートナーにぶつけてしまうのは、新たな家族の呪いを生成してしまうことになる。気楽でいられる範囲で頑張るしかなさそうだ。
3.不祥事教員および予備軍の座談会で思ったこと
・「健常者のふりをすることに疲れた」。「幼少期から普通の人々と何かずれのようなものを感じてきた」。近況報告でこう漏らしたところ、参加者からも賛同の声。
・人と関わることが難しい。毛づくろいのようなコミュニケーションが苦手なのである。ゆえに、不愛想と思われたり、嫌われていると思われたり。そうした中いい人の仮面を何重にもかけ続け、本心に蓋をするとやはりいいことは無いようだ。
・「なぜ、やってはいけないとわかっているのに一線を越えてしまうのか」。参加者からの問いに、各々思考をめぐらす。
・私の中では大きく三段階で理解していった。
①
渦中。自身が一線を越えている最中は、この問には正対できない。「やっちまったな あ。もう二度とやらないようにせんと」。同じ感想を繰り返すだけ。
②
ことが明るみに出て自身を振り返り始めたころ。この頃は「いい人でいようとした自分」と「やってはいけないことをしてしまった自分」、どちらが本当の自分なのかで悶々とする。自己分析をすることが、言い訳を探しているような気分になり自分自身は生きていても仕方ない存在なのではないかとも感じる時期。
③
それぞれの理解の仕方の中で「天使も悪魔もどちらも自分自身であり、どちらかが本質というわけではない」ということがわかってくる。私の場合は、2.で述べたような理解に至ったとき、この問に対する回答を得たような気がした。
全ては生きていくための対処法。そして誤った対処法に至るには、それまでの生き方のどこかに歪がある。ゆえに一線を越えたものは単純に誤った対処法をとらないということのみを重視するのではなく、歪が生じない生き方を探らなくてはならない。
・なぜ生き方に歪が生じてくるのか。根本は幼少期までさかのぼるのではないかという話題が出る。例えば2.で触れた家族の呪い。少年期のいじめに代表されるようなトラウマ。それらに振り回された結果だったり、あるいは振り回されまいと無理をした結果だったりで、人は素直に生きることが出来ずに一見「健常者」を振る舞いながらどこかが歪んでいくものなのかもしれない。
・参加者から漏れた「今、自分を悪とは思わないが、過去を振り返るとなるべくしてなったとは思っている」という言葉が印象的だった。
ということで、備忘録代わりにあえてまとめまずこのままにしておきます。