top of page

不祥事に至る流れを考察する



どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士でピアサポーターのぬっぺふです。

今回は不祥事に至る過程にはどのようなパターンがあるのかを考えていきたいと思います。


自分の体験についてはデータも多いですし、分析もしやすかったものの、それ以外のパターンについては教育現場で働いていた際の情報と心理学的な知識による推論が軸となってしまっている点はあります。「俺の場合は違ったぜ」という元不祥事教員の方はぜひ連絡を頂ければと思います。欲しいのはデータです。文科省や県教委に「不祥事はこう起きるんですよ。だからこういう対策が必要なんですよ」と納得させるだけの客観的根拠です。


ということで、現状では多分にデータ不足な考察になってしまうのですが、とりあえず、いってみましょう。



 

0.不祥事を起こす教員の2タイプ


 まず、ぬっぺふの実体験、また不祥事防止研修等で得たケース概要等から推測するかぎり不祥事を起こす教員は大別して2種いるのではないかと感じています。


 1つは自身の行動に問題があることはわかっているものの止められない、「わかっちゃいるけどやめられない」タイプです。このタイプは性的な問題や衝動的な行動(飲酒運転、器物破損や暴言等)を起こしてしまい懲戒免職になりやすいです。


 続いて2つめは、周囲から見て自身の行動に問題があることはわかっているものの、自身の教育観や経験から来る信念から「俺は間違っていない」と言い張るタイプです。教育熱心で部活動や生徒指導に燃えていることが多く、体罰やパワハラ、セクハラなどで訴えられることが多い印象です。ある程度の実績をもった経験のある教員が陥りがちです。


なお、ぬっぺふは前者が7割、後者が3割といったMIX度合でした。

 

1.「わかっちゃいるけど止められない」タイプ


 問題行動をわかっちゃいるけど止められない。飲酒運転、薬物乱用、果てには盗撮、買春etc。

 このタイプは簡単に言うと何等かの依存症に陥っていることが多いです。それがアルコールや薬物であれば比較的周囲も気付きやすいのですが、ギャンブルやネット、ポルノ等への依存である行動嗜癖(=こうどうしへき)となってくると発見が難しいケースが多く、不祥事発覚という「底つき体験」を経るまで自身を客観視できないこともあります。

 

 さて、ここで行動嗜癖という概念が出てきたので少し時間をかけて確認をしておきます。大事なことなので。


 行動嗜癖とはある特定の行為に依存することで精神の安定を図る、依存症の一種です。

 例えばアルコールを摂取したとき、脳は脳内麻薬を出します。日頃のストレスから自分を開放し、気持ちを切り替えてくれるのはそうした脳内麻薬のなせる技です。でも本来この脳内麻薬は行動によって出るものなのです。スポーツで勝ったとか、友人と楽しく合奏したとか、自分の好きな本を思いっきり読めたとか、そうした「好き」に打ち込んでいる時、「達成感」を感じた時にどばどば出るのが健全なあり方です。


 ところが、手軽に「達成感」を得られる行為というものが世の中には沢山あります。例えばギャンブル、性的な快感、ゲーム…

 たちの悪いことにこうした行為は手軽(お金や時間をかければ誰でも快感を得られる)なわりに、刺激が強い。そしてこうした特定の行為から発生する「達成感≒快感」に取りつかれ、最終的にはアルコールや薬物中毒と同じようにその行為なしでは生活できない状態になってしまったことを「行動嗜癖」と呼ぶのです。


 昔から有名なものでは万引きに依存してしまう「窃盗症(=クレプトマニア)」、覗きに依存してしまう「窃視症」等がありましたが、依存の範囲は幅広く、最近では自傷行為も1つの嗜癖(=アディクション)であるとされています。

 

 実はこの行動嗜癖、文科省は早い段階で注意を促していました。平成30年、若者のスマホ中毒が話題になった時期です。

 おもにスマホ中毒、そしてその背景にある「ギャンブル依存症」を警戒したわけです(スマホのガチャを回す行動はまさにギャンブルそのものですから)。


 そんなわけで近年「ギャンブル依存症」については「個人の人格とは関係なく依存症なんだ」という理解が多少始まってきたように感じます。しかし、性的なものへの依存についてはまだまだ理解が進んでいないのが現状です。やはり恥ずかしさもあり本人も秘匿しますし、周囲の理解もない状況下で適切な相談先を見つけることもできず、依存をこじらせ続けてしまうことがあります。

 

 もうお分かりかと思いますが、私は「わかっちゃいるけど止められない」タイプの不祥事は何らかの原因から「依存」が強まってしまうことから起きている状況と考えています。

 そして教員の不祥事に性的なものが多い理由として、性的なものへの依存は先述したように発見が遅れることが多く、結果「底付き体験」を経るまで自分の状況に気がつくことができないということになりやすいゆえかと思います。


 さて、ではここで一度まとめましょう。

わかっちゃいるけど止められないタイプは何らかの依存症になっている

中でも、特定の行動への依存は表に見えにくく表面上はわかりにくい

中でも性的なものへの依存については本人も隠す&社会の理解も追いついていないため一人でこじらせやすい

結果、不祥事を起こすまで本人も周囲も対策がうてない

 以上がわかっちゃいるけど止められないタイプの動きで共通する部分です。


 ・・・さて、ですがこれでは当事者目線が足りませんね。

 大事なのはここから。「依存したから問題が起きた」ではなく、なぜ「そこまで依存せざるを得なかったのか」です。

 

 ですが、そこについてはもう1つのパターンである「俺は間違っていないタイプ」についての説明をしてからまとめていきましょう。

 なぜなら両者は出方が違うだけで大元に横たわる原因は同じものだと思うからです。



 

2.「俺は間違っていない」タイプ


 周囲から見て、自分の指導方法が問題視される面もあるのだろうとわかってはいる。けれど俺は自分を変えない。なぜなら「俺は生徒達のためにやるべきことをやっている」だけなのだから。マスメディアや学者は現場のことはわかっちゃいない。俺は自分のやり方で沢山の生徒を育ててきたし彼らも感謝してくれている。問題だと言われるのならいっそ辞めてやるよ!

 

 ・・・極端な例ですが、こうした思考法をしている教員は一定数いると思っています。このタイプの先生が不祥事に繋がるパターンはパワハラやモラハラ、体罰といったことが多いですが、中には「わかっちゃいるけどやめられない」自分を正当化しているだけといったケースもあります。


 彼らは何らかの成功体験をつむ中で自分は間違っていないという信念に捉われることが多いです。そして根本的には似たような思想をもっている教員と仲が良く、彼らとのやりとりを通じてさらに「やはり自分は間違っていない」という思いを強めていきます。「わかっちゃいるけどやめられない」タイプが一人で欝々と問題を抱え込み螺旋状にドツボにはまっていくのとは対照的です。

 

 教員という職種は、非常にグレーゾーンが多く、杓子定規にやっているとうまくいかないことだらけです。生徒との関係を作っていくためには時には本来の教員と生徒の境界線を取り払い、人と人との関係の中でやりとりをしていくことが必要なこともあります。そんな中陥り易いのが「ルールの有名無実化」と「個別の縄張りには口をださない」という状況です。個々のクラスや部活の内情に応じてグレーゾーンをやらなくてはならない時もあることを各教員は体験から知っています。だからこそ周囲の先生方は

「ルールに従えば良くないことだけど生徒も納得しているようだし…」とか「問題になるかもしれないけれど、本人の縄張りでやっていることだし…」と問題意識は持ちつつも静観してしまうのです。


 「俺は間違っていない」タイプの先生はよくも悪くも行動力があるタイプが多いので、特定分野のスペシャリストになっているケースも多いです。結果、周囲は余計に「問題はあるけれどあれがあのひとのスタイルなのだから…」と思ってしまいます。

 結果、熱血教員だったものが単なる暴君と化し、大きな問題が起きるまで野放しになってしまうのです。


 私は人間関係には様々な結び方があると思いますし、罵声を浴びせながらも愛が伝わる先生も沢山見てきています。画一的にルールでしばることには反対です。ですが一方で時代の変化の中、生徒の質も変容してきていることは認めざるを得ません。より繊細な心配りが必要だったり、背中で語るといった従来の教育方法が伝わらない時代になってきたと教員時代から感じていたものです。


 教育は教員のマスターベーションで終わってしまってはいけません。生徒が変わったのであればそれに応じて対応も変わっていくべきです(無論、変えてはいけない点はあると思いますし、教育がサービス業化することは最悪の事態だと思っていますが)。ですが、「俺は間違っていない」タイプの人は自分に生徒を合わせようとしてしまいます。結果、過去のやり方が通用せず、そうした教員の焦りや苛立ちが生徒の因子へと向けられてしまうことがあります。問題化するのはそうした状況の時です。


ということでここで状況をまとめてみましょう。

「俺は間違っていない」タイプは自身の成功体験にしばられている

同様の思考法をする仲間とのやりとりがその信念に拍車をかける

学校特有のグレーゾーンの多さ、周囲の目線のゆるさもそうした状況を育成する

生徒が変わればやり方も変えなくてはならないが、それができず自分の我に捉われてしまうと問題傾向が強まっていく

 さて、上記が「俺はまちがっていない」タイプのよくある流れです。

 ※実際にはこのタイプも何かしらへの依存を併存していることもありますが・・・。


 このタイプについても「なぜ問題になるまで自分の行動を振り返ることができなかったのか?」「なぜ問題行動が加速したのか?」には何らかの要因がありそこを分析していく必要があります。


ではいよいよ次はこうした教員の行動の背景をより深く考えていきたいと思います。

 

3.なぜそうなってしまうのか


 私は、両者には共通する側面があると思うのです。それは「どちらのタイプも学校の中だけで世界が完結してしまっていることが問題を強めている」という点です。


 学校生活が生活の主軸となってしまうがために自身の時間がとれず、結果短時間で達成感を得ることのできる「依存」に依りやすくなっていきます。

 また、学校生活が全てとなってしまうことにより客観的な自分の行動を判断することが難しくなってしまいます。



 

 そうなってしまう原因その1は「多忙」です。

 教員の仕事は忙しいです。一般企業のそれとはまた少し違った多忙さです。イメージとしていうなら、メインの仕事をこなしながら、PTA会長と自治会長、ついでに少年団のコーチを兼任するようなものと思ってください。仕事以外の3役は給料も発生しませんが責任は発生しますよね。その辺も似ています。やらない人もいるけど誰かがやらなくてはならない仕事であること。そこも似てます。

 そして初めて学校に配属された初任者はそれら全てをやることを暗黙の内に求められます

※当然学校が変われば外国のようなものなので、全ての教員が休日もないような生活になるわけではありません(例えば部活自体がほぼ壊滅している学校であれば部活動の負担はほぼなかったりする)が、私の頃は初任者はいかに私的な時間を学校に割けるかが勝負所といった雰囲気が強く、大会や行事が重なる時期などは休みなく全ての時間を仕事に投入しなくてはなりませんでした。

 

 20代から30代という時期は非常に重要な時期です。本来であれば人との繋がりを広げ、研修等により見識を広げ、まだ家族を持っていないという利点を活かして旅をするなど人生の土台を広げる時期です。

 ですが、教員の場合それが学校の中で完結してしまいます。正直、外部研修などに参加する時間もとれないのが現状です。

 そんな中、なんとか自分を保つためにストレス解消を短時間で行いながら無理やり体に鞭をうって日々をのりきるか、学校での職務の中で合法的に(あるいはグレーゾーン的に)生徒を支配していく中でストレス解消をしていくかという偏った状況に陥りやすいように感じます。


 それでも20代の内はいいのです。がむしゃらにやっても体は持ちますし、若さを理由に大抵の失敗はカバーしてもらえます。問題はこうした「学校の中だけで時間を過ごしてしまった教員」が30代にさしかかり自身の中の空白に気付いた時です。


 ※私は20代はがむしゃらに仕事に励みました。指導教官は昔堅気の熱い教員で、いかに生徒と共にいるか、いかに生徒のために動くことができるか、それを大切にしている方でした。

 雪が降れば翌朝早く出勤し、生徒とともに雪かきを行う。熱い時期こそスーツをきて舞台上に立つ。文化祭や各行事には本気で取り組み、常に優勝を目指す。その中で各生徒に役割をあたえ、進学や就職に向けた実績と自信作りを支えていく。こうした姿勢に憧れ、私も滅私奉公のように生徒と関わり沢山の行事を成功させてきましたし、10年先を見据えたようなユニークな取り組みも行うことができました。ある意味幸せだったと思います。

 でも、一方で感じたのは周りの同年代に比べ自身が取り残されているような感覚でした。たしかに学校の中でのことは詳しくなった。けれど、それは結局慣れただけなのでは?自分の人間としての幅は、大学を卒業してから何も変わっていない!

 自分自身の中に、学校での生活以外、何も残っていないのに気付いたのです。そしてそうした自分の空っぽをごまかすかのように、仕事における達成感を求め右往左往するも、学校が変われば文化もかわり、うまくいかないことも増えていき。

 結婚し子どもが出来る中、以前のように過重労働でなんとか誤魔化していくこともできなくなり。精神的にも肉体的にもおかしくなりだしたのはそんな中での出来事でした。そして私は性的なものへの依存をより強めていくことになったのです。


 ここから先はあくまで自分の個人的な経験になってくるのでまた別記事にまとめますが、ともかく上記の内容で伝えたいのは以下です。

両タイプに共通するのは「学校の中しか世界がなくなってしまっている」こと。

そして教員の多忙さはその要因となりうる。

多忙の中短時間でのストレス解消で誤魔化す人は依存系に、職務を通じてストレス解消を目指す人は生徒を支配する暴君系になる危険性が高まる。

そうした傾向は、30代を越え自身の空虚さに気付かされたときより強まる可能性がある

 こんど不祥事系のニュースがあったときは年齢にも注目してみて下さい。30代、多いはずです。

 

 続いて原因その2は、「不遇感」です。

 

 教員の仕事はメインの仕事に加え、PTA会長、自治会長、少年団のコーチを兼任するようなものと言いました。ですが、これらの役職は「絶対やらない」と突っぱねられる人は逃げることができるものでもあります。

 そして、学校にはいるのです。自分の苦手なことは一切やらず、授業も毎年同じ内容の繰り返し。生徒指導もせず生徒とはなれ合いの関係を築くだけ。部活もあれこれと言い訳をしながら楽な部活に居座り続けるような人達が。ひどい人になると全く部活の運営を行わず折角生徒が集まってきてもまともな指導を行わず自ら部活を崩壊させるということも起きます。※とてもひどい話ですが、これは不祥事にはならんのです。


 私が初任者で訪れた学校では体育の先生の内、メインでしっかりと部活を行っているのは1人だけでした。残りの方々は部員が集まってきてもまともな対応をせず、結局部員ゼロまで追い込んでしまう。結果、部活の負担が無くなりよく教官室でスポーツ観戦をしている姿を「いいなあ」と見ていた記憶があります。

 ひどい話とは思いますが、部活は本来教員の職務ではなくあくまで生徒が主体となって行う活動という名目がある以上、こうした教員の対応も合法なのです。

 

 皆が忙しく、大変な中自分も頑張っているというのであればまだ耐えられるものです。ですが、実際は頑張れば頑張るだけなぜか他の雑務も降ってきて、自分の仕事ではない仕事をやりながら他の先生が定時で帰っていくのを眺めるようになっていくのが現実です。


 それでもやるわけです。学校以外に居場所がないからそこで頑張って認められていくしかないと思うのです。生徒のために何かしなくてはと思うから頑張るわけです。でも実際は、世の中要領のいい人の方が楽しく生きていくものです。教員についても自分の好きなもの、楽しくやれるものを無理なくやっている方の方が余裕もあり生徒人気も高かったりするものです。


 そんな中、私の場合は「不遇感」が増していったのを覚えています。趣味もできない、人にも会えない、一番力を入れたい教材研究は一番後回しになってしまう…生徒のために人一倍時間を割いているはずなのに頑張りを認めてもらえない。なぜか好きなことしかやっていない人の方が楽しそうにしている…「ズルい!」

 

 

よく犯罪を犯した人が「むしゃくしゃしていた、相手は誰でもよかった」といいます。あれは正しくなく、「むしゃくしゃしていたから、自分より弱そうな相手にやつあたりしたかった」が正解です。


 この不遇感から来るむしゃくしゃが、直接生徒にぶつけられていけばやがて体罰やパワハラといった行動が起こってきます

 また、むしゃくしゃを他人に直接ぶつけられない人はアルコールや薬物を乱用することで「自分を傷つけ」ストレス解消を図り出します

 そしてそのいずれもに該当しない人の中には「表向きはいい人でいながらも他者に八つ当たりをしたい」という願望から卑劣な方法で他者を支配することに惹かれていきます。ここで従来の性依存と合致すればいわゆる「盗撮」や「痴漢」の発生です

 チャンスがあれば頭は真っ白、いかに撮影するかしか浮かばなくなってしまったり、電車にのれば無意識にターゲットを探しているといった状況になってきます。

 なお、職場や外部ではなく家庭内でむしゃくしゃを発散すればDVの完成です。


 ※暴力は必ず自分よりも弱いものへ向かうものですが、根本には本人のコンプレックスが関わっていることもあります。私は自己肯定感を持つことができず盗撮を軸に色々とやらかしてしまった不祥事教員ですが、症状がひどかった時期は目にうつるもの全てを否定する言葉が頭に渦巻いていました。部活でもクラスでも女性というもの全般にコンプレックスを抱えていたこともあり、女性に対して優位に立ちたいという願望も内心で強くもっていたと今では思います。


 心理学的には性犯罪加害者とDVの加害者は似た精神傾向を示すといわれています。詳しくは別記事で取り上げたいと思いますが、どちらも表面上は礼儀正しく真面目で優しいが、内心ではコンプレックスや間違った信念から「暴力を自分より弱い対象にふるっていく」という面も持ちあわせています(盗撮も本人の意思とは無関係に痴態を覗き見るのですから暴力の1つです)。

 そして、彼らに対して行わなくてはならないのは「やってはいけませんよ」という禁止だけではなく「自分を分析する中で無意識化に存在する自分の間違った思考回路を修正していく」作業、いわゆる「認知行動療法」です

 

 どうですか。教員の不祥事防止と重なるパターンが見え隠れしませんか。


 一度まとめましょう。

教員の仕事は好きなことだけやっていても文句はいわれない

そして好きなことだけやっている教員の方が人生を楽しく生きているように見える

そうした中、他者と自分を比較し「不遇感」を感じ出すと、むしゃくしゃが発生

むしゃくしゃの解消のために「対処」として問題行動が起きやすくなる

 

4.最後に


 不祥事を誘発する原因は他にも色々と挙げることはできます。気分障害(鬱病、双極性障害等)の併発や発達障害や境界知能による生き辛さなども見捨てることはできません。ですが、全体に共通する流れは今回説明した流れが2大主流かと思っています。


 無論、今回はデータが圧倒的に不足しておりぬっぺふの見てきた限られた教育現場、過去の不祥事のデータ、自身の体験を元にした推論です。まだまだ自分としても納得しきれていませんし、客観性のある推論かと言われればまだまだでしょう。


 ですが、ともかく今回伝えたかったのは

「不祥事教員にはパターンがあり、よりデータを集め分析を続けることでよりよい予防法が見えてくるのではないか」ということなのです。

 例えば今回の内容に即して言うならば


①学校外の人々と接する時間をちゃんと確保する

(特に若手教員や初任者にこそその時間をもうけることが大事!)

②仕事をする上でグレーゾーンがあることは重要だが、不祥事を誘発するようなグレーゾーンは学校全体で認めていかない風土を作る

(部活動は大きな課題です…。生徒と保護者や前任の先生からグレーゾーンを求められることもざらなので…)

③様々な悩みを相談することができる部署の充実や、外部機関との繋がりを提示していく

 ※性依存をはじめとする依存症、自身の空虚さなどを相談できる場が必要です。なお民間企業では職員のメンタルヘルスを向上させるための相談機構が存在するにも関わらず、学校にはありません。


④ベテラン陣は若手に仕事を振って楽をするのではなく、むしろ若手に余裕を与えてあげる目線ももっていく


⑤不祥事防止研修では、起こすとこうなるという内容ではなく「こういうメカニズムで不祥事が起きていく」「こうした方には不祥事の危険性がある」といった流れを伝え、教員の自己覚知を促す


 などの対策が考えられます。一人の人間の経験と心理学の知識等からでもこれだけ具体的な対応策が浮かぶのです。もしデータが集まれば、より効果的な対策を考えることはできるでしょう。


(なお、余談ですが私は以前不祥事防止研修の際配られたアンケートに書かれていた「どうしたら不祥事を防止できますか」という問いに「若手にこそ余裕を与え、外の世界と繋がる機会を与える」と書きました。そしてそのことを50代の先生に伝えたところ「不祥事を起こす人に余裕を与えたら余計問題おこしちゃうんじゃないの」と一笑にふされました。余裕がなかったころにやってしまった問題行動が発覚し私が不祥事教員となりその先生に多大な迷惑をかけることになるのはそのしばらく後のことでございました…)


 どうでしょうか。データは不足している中ではあるものの、ただ単純に「不祥事するな」と言われるよりもこうして不祥事への道筋を紐解いていき、それを元に対策を講じる方が良いような気がしませんか?

 何よりこの作業は学校が今までなあなあにしてきてしまっていた問題点への対応もせざるをえなくなる所がポイントです。不祥事をなくすだけではなく、職場環境の改善につながる。これが本来必要な不祥事防止のあり方なのではないでしょうか。


 





 なお、今回の記事を読んで、こういうケースもあるのではないか等の反論はあるかと思います。そうした点は是非コメント等でお伝え下さい。繰り返しますが、必要なのはデータです。いつか文科省や県教委、そしてなにより不祥事に繋がりかねない状況にいる先生の目にこの記事がとまることを願って、今回は〆とします。




 




 





 

 





 



 

 

閲覧数:139回0件のコメント

Commentaires


bottom of page