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不祥事の捉え方を変える




 どうも。元不祥事教員で現社会福祉士のぬっぺふです。

 2024年7月13日に、第一回「不祥事教員&予備軍のための座談会」を実施いたしました。初めての貸し会議室にぶっつけ本番のZOOM使用と色々不安要素はありつつ、参加して頂けた方にも恵まれなんとか無事に会合を終えることが出来た次第です。会自体は毎月第二土曜に行っていく予定ですので、興味のある方は是非フォームから連絡くださいませ。


 さて、「不祥事教員&予備軍のための座談会」は自助グループではありますが完全に言いっぱなし聞きっぱなしではなく、「不祥事を捉える一助となるような情報提供」の場にもなってほしいと考えています。そのため、対話の時間の前にいわゆる「当事者研究」の共有の時間を用意してみています。今回のテーマは「不祥事の捉え方を変える」という内容でした。…今回のブログの内容は実際に会合でお配りした資料の内容です。


 あくまで「不祥事」を理解するための入口にあたるものであり、ぬっぺふによる「当事者研究」です。ですが、「不祥事」という得体のしれない妖怪の解像度をわずかですが上げる手助けとなるかもしれないとは思っています。ご一読いただければ幸いです。


では、いってみましょう!



 

「不祥事教員&予備軍のための座談会」資料


 

【設立の経緯】

 教員不祥事は性加害から盗難、暴言と非常にバリエーションに富んでいます。そのために、「何か自分はおかしい気がする」と思い自助グループやカウンセラーの情報にたどり着いたとしても「でも自分はこのグループの趣旨とは違う気がする」と通り抜けてしまうことがあると思うのです。

教員不祥事は学校という環境、多忙な仕事、公私や自他の境界を曖昧にしていくような働き方、それらによって加速されていく面があり、必ずしも本人の性格の問題と一蹴出来るものではありません。「同じような苦しみを抱えた他者」と適切に関わり、現状を見直す機会さえあれば減らすことができるものと私は捉えています。そこで、あえて「教員不祥事」に限定したグループを作ることにより、悩んでいる方がアクセスしやすい状態を作りたいと考えました。

…今はまだ小さなグループですが、仲間の存在は不祥事や再犯を予防する上で最も大切なものです。また、ここで語られる「当事者の体験」は今後教員不祥事を減少させる上でも大きな価値のあるものと思っています。なぜその行動に行きついたのか。それを探る中で自分を救いながら不祥事教員根絶を目指していきましょう。

 

【諸注意】

・ミーティング中はミーティングネームを使用します。

 

・お互いのプライバシーを尊重し、この場で話されたことは外に持ちださないようお願いします。個人情報に触れないのであれば、気付きのメモをとることは自由です。

 

・他者の発言に対し、批判はしないようお願いします。他者の発言を受けて自身が感じたことや、自分ならこうするかもといった情報の共有は構いません。

 

・悩みは自由に語って下さい。ただし、現在進行形の触法行為などについては話すかどうかは本人の判断にお任せしますまた、他者の個人情報に関わるものについては特定できる形では言わないようお願いします。


 

ワーク「不祥事の見方を変える」

 

 不祥事の内容は多様です。ですが、それらを加速させる要素には共通項があるように思われます。そこで今回は【過剰適応】【能力の凸凹】【対処法としての問題行動】の3つをキーワードに「不祥事とは何なのか」を別視点から捉えていきたいと思います。

 

1.過剰適応

 

 学校は特殊な場所です。教育の専門家であるはずの現場には絶えず「多様な仕事」が降り積もり、結果「公私の境界」が失われがちです。また、生徒と接する際には「論理よりも権威」の方が有効と思われている面もありますし、生徒を通じた自己実現を目指す人々(ある意味で「自他の境界が曖昧な人々」)も沢山います。

 実際は多様な仕事の中には必要のない仕事が多数紛れています。公私の境界が守れる範囲で手を抜いていい。生徒と接する際は「論理」を軸に接しても構わないですし、生徒と教員の間には別の個としての隔たりはあってしかるべきです。ところが、根が真面目であったり成育歴の中で「他者から嫌われること」に過剰に気にしてしまったりするタイプの場合は、本来の自分と違う「教員としての自分」を作るためにまさに「過剰」に周囲の文化に「適応」しようとしてしまうことがあります。簡単に言えば、自分を周囲の期待に沿うよう捻じ曲げていってしまうのです。

 …本来であればこうした過剰適応は長くは続きません。一気に棒を曲げればポキッとおれるもの。ところがこうした過剰適応の過程で「承認される」ことがあると、折れ欠けた棒は承認というボンドで補強され無理矢理矯正されてしまう

 教員という仕事は素晴らしいもので、生徒と関わる中で「感動」を味わう場面も多いです。しかし、この「感動体験」もある意味強力な補強材になり「過剰適応」を推し進めることもあります。

 悩ましいのは本当は向かないのを「過剰適応」しているのか、それとも成長して「適応」しているのかが本人にはイマイチ判別が付かないということです。もし「過剰適応」だった場合は周囲の環境が変わる頃、若さが失われ無茶が効かなくなってくる頃、つまり20代後半から30代前半あたりで危機が訪れやすい傾向があります。

 「過剰適応」の場合は、大きな無茶をして自分を曲げている分それを維持するのに大きな「代償」が必要となります。時間、趣味、友人、人生観。人によっては「依存」という名の魔法に頼る人もいます。ギャンブル、アルコール、性、ゲーム、薬…こうした変化は数年をかけて熟成されるので、本人はその行動が「過剰適応の代償」と気付かないことがザラです。

 貴方は「過剰適応」の結果、使い勝手のいい何でも屋になっていませんでしたか。あるいは以前であれば使わなかったような言葉遣いで人を罵れるような、尖った人格になっていませんでしたか。自分らしさを構成していたはずのものが失われていくことを「大人になるってこういうこと」と合理化しようとしていませんでしたか。「過剰適応」は不祥事に繋がる大きなリスクです。ゆえに、そこに陥る自分の傾向に気付いていなければ、たとえ職種を変えたとて別の形で問題が現れる可能性もあります。

 

2.能力の凸凹

 

 能力の凸凹は誰にでもあるものです。通常、人は長い青年期を経て自分の得意不得意に気付き、バランスをとる生き方を身に付けていきます。ところが、凸凹が大きいとそうしたバランス感覚を身に付けるのが難しいばかりか、社会人になってから一気に弱い部分が露呈されてしまったりすることもあります。昨今話題となった「境界知能」や「発達障害」が代表例です。

 教員になることが出来る人であれば、それらを抱えながらも工夫をすることで何とか学生生活を乗り越えてきている人が多いです。得意を軸に生活を組み立て苦手から遠ざかる…笑顔をたやさず周囲に嫌われないようにする…ひたすら時間をかけて要領の悪さをカバーする…等々。しかし、学校生活と職場では必要とされるスキルが大きく違います。正論よりも調和を。理論より行動を。硬さより柔軟さを。高度な技術より要領の良さを。こうして、置かれた環境が変化することにより得意よりも苦手に向き合わざるを得なくなった結果、「能力の凸凹」がはっきり目に見える形で牙をむいてくることがあるわけです。

 そんな中、周囲に嫌われないように、ひたすら時間をかけて、教員生活を乗り切ろうとすればどうなるか。凸凹の無い人であれば通常に「適応」できる環境でも、凸凹のある人にとっては「過剰適応」の必要となっていることがあるのです。

 

3.対処法としての問題行動

 

 さて、上記の「過剰適応」や「能力の凸凹」が重なってしまうと特に地獄です。プライベートな時間は削られ、得意なはずの教科には満足に時間が避けず、折角何かを掴んだと思っても「異動」や「生徒や時代の変化」によって適応は脅かされる

 教員であることに人生を注いだことのある方であれば、こうした理不尽な経験には覚えがあるのではないでしょうか。そして、こうした理不尽な働き方の中で「問題行動」に繋がる「ゆがみ」が生まれる可能性があります。

 それは、例えば「不遇感」。これだけ頑張っているのに報われない…自分だけ貧乏くじをひいている気がする…といった感覚。

 それは、例えば「依存症」。日々の無茶をカバーするための魔法。使用に応じてついていく耐性と、依存物以外からの刺激を弱めてしまう(つまり依存物以外では満たされなくなっていく)という副作用により人生を一色で塗りたくるもの。

 それは、例えば「精神病」。うつ病や双極性障害では特定の欲望を大きく促進させたり、正常な判断力を奪うこともある。

 それは、例えば「認知の歪み」。矛盾した感情をごまかすために脳が適応した結果うまれる一種の妄想。「女は男より楽をしている」「理屈の通じない生徒と対応するにはこちらも理屈を捨てなくてはならない」「時に体罰は必要」「気付かれなければ被害者はいない」「自分は完璧でなくてはいけない」等々。

 それは、例えば「神経レベルでの変化」。常にストレスにさらされ臨戦態勢が続くと人は「闘争&逃走」のスイッチが入りやすくなり、必要以上に怒ったり言い逃れしたりする。さらに大きな恐怖にさらされ続けると、「不動」のスイッチが入りやすくなり日常の中で行動や思考が緩慢になったり停止したりしてしまう。

 ※ポージェスのポリヴェーガル理論ではこうした神経レベルでの変化が人から「社交性」を奪っていくことを説明しています。

 

 …こうした様々な「ゆがみ」が何らかのきっかけで繋がったとき、そこに「問題行動」が起きてくるのです。限界まできている「ゆがみ」のバランスをとるための対処法として。

 さて。そうは言ってもあなたの中の天使(=フロイトで言うところの超自我)は善悪を理解しています。いくら「ゆがみ」があったとしても本人の中で「これはダメ」と思っているものは対処法として採択しません。ですが、天使は悪魔(=フロイトで言うところの無意識)に言いくるめられることがある。

 

 「お前は生徒指導部だろ?殴らなきゃ伝わらない相手もいるんだよ」

 「生徒でももう大人だぜ。本人合意なんだから真剣な恋愛だよ」

 「盗撮はばれなきゃ被害者がいないんだぜ」

 「これだけ辛い目にあってるんだ、少しはいい目見たっていいだろう?」

 

 こうした悪魔の言葉に天使が「そうかもしれないね」と言った瞬間、天使と悪魔の同盟が発生します。そうすると二人の間で彷徨っていた貴方(=フロイトで言うところの自我)に最早選択権はありません

 そして、こうしたおいしい目は大きな脳内麻薬ももたらします。それこそ日々の不安や不満を吹き飛ばすくらいの。最初の一回を超えてしまえば、次回からは一種の「依存症」の要素も入ってくるのが不祥事の怖さです。頭の中の天使と悪魔は結託済み。脳はその問題行動による快感を経験済み。そして何より「過剰適応」で疲れたあなたは無茶の代償を欲している。こうした要素が絡み合い、不祥事教員は生まれていきます。「自分は頑張っているはずだ」「自分は良い教員たろうとしている」、そう信じたいがために皮肉にも行動は不祥事に近付いていくのです。

 

 こうした不祥事への道のりを確認していくと、不祥事は誰でも踏み込みうる袋小路のようなもので、迷い込んだものを「生まれついての悪」として断罪&排斥するのみで減らせるものではないということは確かです。これは賛否両論(おそらく当事者以外からは9割方は批判)あると思うのですが、私は、不祥事とは「負担が限界を超えているのに教員たろうとする際の対処法」としての側面があると感じています。

 

※特に「若気のいたり」と呼べない位の年代…20代後半から30代あたりにかけての不祥事には多い印象。なお加齢とともに社会の変化についていけなかった「権力行使依存」とでも言うようなタイプが増えていくように感じています。

 

 …たしかにその対処法に行きついてしまったことは他の人と違ったかもしれません。(深堀していけばなぜそこに行きついたのかも見えてくることがありますが、それは人それぞれの成育歴や家族の神話、発達の凸凹等とリンクしてくる多分に個別的な内容になるので一言ではまとめられません)

 ですが、たとえ袋小路であったとしてもそれは貴方の心と体が過酷な現実に対応しようとした結果なのだという側面を忘れないで欲しいのです。その無意識下での心と体の努力を否定してしまうと、ここから自分を変えられません。

 無意識は否定すると一度は姿を消しますが、実際は「受け入れられなかった」という恨みをエネルギーに変えて心の奥に沈殿します。もしあなたが自分の「不祥事」を、それを行ってしまった自分を変えていきたいと思うなら、あなたは無意識と体の選択を受け止めていかなくてはなりません。「不祥事」という行為は肯定しないが、無意識に行った体と心の努力は認めてあげる必要があるのです。それだけ大きく自分を変えてきた貴方です。同じように時間をかければ、元の方向へ変化する力が備わっているはずです。

 不祥事を単なる「犯罪」「問題」「個人の欠陥」と捉えるのではなく、教員たろうとした際の「対処法」であったと受け止められた時、あなたの無意識は変化のための力を貸してくれるようになります。

 当グループは、対話を通じて自分の無意識や認知の歪みを探っていく手助けとなる場所です。今は変えられる実感が無かったとしても、継続の中で違う視野が広がることでしょう。変化は徐々に、確実に訪れます。それを信じて、今まで秘めてきたモヤモヤを場に出してみましょう。では、対話のスタートです。


 

※不祥事教員&予備軍のための座談会は毎月第二土曜午後3時前後から池袋近郊で開催中です。詳細は当HPのトップページをご確認ください。ではまたいずれ…



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