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ぬっぺふ

努力に憧れる天才の言葉にご注意



0.ながーい前置き


 どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士でピアカウンセラーのぬっぺふです。

 突然ですが、皆さんは普段どのぐらい努力をしていますか?


 教員であれば毎日の教材研究に部活動、校務分掌と、定時ではとても終わらぬ量の仕事を抱え込み毎日持ち帰り仕事をしているかたもいるのではないでしょうか。

 …でも不思議なことにそうした働き方の人ほど自分が努力をしているという認識を持っていないような気がします。 自分は時間の使い方が下手だから毎日こんなことになってしまって恥ずかしいという思いを抱えてる人すらいるように感じます。


 私自身も教員時代には毎日15時間労働をして帰ってからは教材研究、朝5時に起きて離乳食作って出勤…といった生活をしていましたが、感じていたのは「頑張ってるな、俺」ではなく、「うまく仕事ができていない…家庭に時間を割けていない…なぜこんなに要領が悪いんだ…」と言う罪悪感に近い感情でした。


 ・・・当然仕事は定時で終わるのが好ましいです。

 力のかけどころがズレていて必要以上に仕事に時間がかかることもいいとは言えません。  

 ですが効率の良し悪しや正しいかどうかはともかくとして、上記したような働き方が本人なりの努力であるのは間違いないですし、少なくとも自分くらいはその努力を認めてあげても良いはずです。…ですがなぜかそうは思えない。


 当時の状況を冷静に振り返られるようになった今だからこそ、世の中無茶している人ほど自分が努力をしていることに気が付けないということもあるのだなと感じています。

 一方で世の中…マスメディアやインターネット、もしくは教員の研修等でははそうした状況と乖離するように

「努力が大切である、自分磨きが必要である、成功するものはすべからく努力をしている、辛い状況をそれこそ15時間労働で乗り越えてきている!!」

といったような努力礼讃が続いているのも見受けるのです。


 確かに真面目にコツコツ努力をする性格は工場労働者にとっては重要な素質であり、そのため産業革命後の社会全体が努力を美化するようになったのは歴史的事実です。

 

 ですが昨今は必ずしもそうした真面目に努力をする性格が必要とされているわけではありません。むしろ有名なひろゆき氏なんかは「真面目な奴は便利だけど人に好かれない」といったようにこきおとす有様…

  それにも関わらずコツコツ努力をする美談はなくならない。

 … この乖離した状況に違和感を覚えていた私に天啓を授けてくれたのが西尾維新という作家の著作に出てきた一文でした。要約すると、


「天才ほど努力に憧れる」


 …この一文をきっかけに、現代日本の抱える必要とされる人材像と、努力礼讃の美談のギャップがどのように生まれているのかが分かったような気がしたのです。

 また、分析を続けた結果現代社会の生き辛さの根本とも関係してくる話だなということもわかってきました。

 そんなわけで、告知からブログアップまで時間がかかってしまいましたが、今回は様々な角度から「天才は努力に憧れる説」の理由および波及効果を考えていきたいと思います。 …ではいってみましょう!



 

1.無意識に潜む結果が伴ってこそ努力であるという思い込み


 まず、まえおきで伝えたような「自分が努力していると思えない」人がなぜ登場するかを考えていきましょう。

 私見ですが、現代日本において「努力をすることとは成功という結果が伴ってこそ意味がある」という暗黙の了解が存在するように見えるのです。


 社会学者のバウマンはこう言っています。

『現代社会は雇用のフレキシブル化と個々人の生活の不安定化・不確実化がおこる「リキッド・モダン」の時代にある。

 かつて完全雇用の時代には、人々は労働により役割やアイデンティティを確保してきたが、雇用の流動化によってそれが果たせなくなり、代わりに「消費」がその位置を占めるようになる

 リキッドモダンの現代は、人々が労働者としてではなく、「消費者」として社会参加を果たしていく社会なのである。この社会を「消費社会」と呼ぶことができる』

 

 …彼の言説を元にすれば、かつては成果がなかなかでなくとも、一つのことをコツコツと努力することができればアイデンティティを確立できた時代と言い換えられるかと思います。それに対し、現代は違う。消費によってアイデンティティ確立を図る時代(一見わかりにくいかもしれませんが、自分が何を買うかによって自分という人間をアピールしていくSNS時代の若者をイメージしてみて下さい)です。

 そのためには仕事は要領よく、効率よく稼ぎ、自分の望むものへお金を投資することが重要になります。つまり、努力は重要だがそれ以上に効率と結果が重要であり、『効率よく儲けた金で自分らしい人生を生きていること』が素敵な生き方にあたると言えます。


 時間をかけて自分をすり減らしその日その日をやり過ごして行く生き方は、かつては「職人肌」と認められたかもしれません。ですが、現代日本においてそうした働き方は費用対効果が悪く、成果が出る努力=努力という認識が無意識にインプットされている現代人にとっては恥ずべきことになってしまう。


 …前置きで伝えたような「努力していると感じられないのはなぜか」の答えの一端はこのあたりにあるのではないかと思うのです。


※例えば昭和の教員達と飲み会に行けばそうした意味のあるかないかわからないような努力話のオンパレードです。 彼らがそれをさらけ出せるのはその経験を自身の誇りと認識しているからです。では今職員室の中でそうした寝てない自慢、泊まり込み自慢をするも明確な成果が出ていない教員がしていたとしたらどうでしょうか。 皆仕事ができない人だなという認識しか持たないのではないでしょうか。

 

2.努力否定と努力礼賛の両面性はどこから生まれるか


 さて、昔ながらの要領の悪い努力を続けている人が罪悪感をもつ要因の1つは社会の変化にあるようだ、というのは1.で論じました。次に、そうした社会の変化は何を通じて人々の間に広がっていっているのか?という点を考えていきたいと思います。


 …ここでポイントになってくるのが、先ほど挙げた天才ほど努力に憧れるという言葉、そしてあまたの天才が番組の枠を超え自分の考えを自由に表明することができるようになった SNS の発達特に YouTube の存在があるかと思うのです。では考察していきましょう。


 世の中には生まれつき能力の格差が存在します。同じ努力をしても 得る結果が同じとは限りません。才能ある人間というものは1の努力で10のリターンを手に入れることができるものです。ですが皆youtubeに出てくるような「成功者達がどれくらい努力をしたのか」という話には興味を示しますが、そのリターン率についてはあまり気がついていないように感じます。


 暴論を言うと私は成功している人はみなすべからく努力をしている。 ただその努力の最中の苦しみや努力の結果のリターン率は凡人とは大きく違うのではないかと考えています。そしてそのことに天才側も凡人側も気付ききらないことが問題を生むのです。


 さて、ではここで一度西尾維新著『人類最強の初恋』の中で行われたやりとりをみてみましょう。



いわゆるライトノベルですので、文体が軽いのはご愛敬。


登場人物は2人の女性。

1人は「」つきで話す長瀞とろみ。一般的には十分天才でエリートに属するも作中きってのまともな人間なので、今回のように普通の人間の気持ちを代弁することも多い。


もう1人はあたしこと哀川潤。作中ほぼ最強の人物として書かれており、隕石の落下現場にいても生きてるなど基本人間じゃないレベルの天才。


二人が色々あって月面で身動きがとれなくなっている時に成された会話が以下のものです。



 

《西尾維新著 『人類最強の初恋』講談社NOVELS p215~》


「不思議なもので、才能のある人ほど、『努力が大事』って言うんですよね。あれ、なんでなんでしょう?潤さんもよく、もっと頑張れとか、もっと修行しろとか、言いますよね。人に向けて言うだけじゃなく、自分が失敗したときにも、修行が足りなかったとか、練習が足りなくて未熟だったとか、そんな風に言うじゃないですか。それって、どういう気持ちで言ってるんですか?」

 なんだか話が逸れてきてるぞ。つーか攻撃の矛先があたしを向いている。緊急事態にあたって本音が出てきたというより、ことが一段落したところで、ここのところたまっていた鬱憤を出す絶好の機会を得たって感じか。とろみはため込むほうだからなあ。まあ聞いてやるぜ――応えてやるぜ。あたしもまだまだ修行が足りないっていうのを、どういう気持ちで言っているかって言えば、やっぱりそりゃあ(つまんねー模範解答だが)、修行が足りなかったなあって気持ちで言ってんだけど。

「……………」

 なんだよ、別にそんなところで見栄を張らねーよ。失敗したときに、いかんいかん、才能が足りなかったって思う奴がいるのかよ?

「いますよ、ここに。それに、あっちこっちに――うまくいかなかったとき、『向いてなかった』とか、あるいは……『運が悪かった』って思ったり。ないでしょ?潤さん、うまくいかなかったときに、それを運のせいにしたこと」

 まったくないとは言わねーよ。ちゃんとあるよ。人を滅茶苦茶なキャラ設定にしてんじゃねーよ。明らかに運とか、ツキ不ヅキの問題ってときもあるし。それを言うなら、あたしに向いてないことだってあるさ。何が言いたいんだ?あんまりあたしに倫理的なことを言わせるなよ。この哀川潤に、努力すれば必ず夢は叶うとか、自分を信じることが大切とか、そんなお寒いことを熱く言わせて―のか?

 (中略)

 あれだ、才能がある人が才能が大事だっていったら、ただの自慢になるから、謙虚な姿勢を示してるってことじゃねーの?立派な振る舞いじゃねーか、くだらねーけど。

「もしくは、本当に心底、努力が大事だと思っているか――ですよね」

 んん?

「いえ、つまりですね。私達が、才能という貴重な宝物を『ないものねだり』しているように、才能のある人達にとっては、努力や頑張りこそが『ないものねだり』する対象だから、それで彼らには必要以上に、努力が大切に思えてしまうんじゃないかって」

 おお。すげえ仮説だな。笑えるぞ。マジでちょっと感心しちまったぜ。つまり天才はあんまり努力とかしないから、努力っていうものをよく知らなくて、逆になんだか『努力ってすごいんじゃねーか』って思っちゃっているってことな?無駄な努力や報われない努力もたくさんあるのに、天才はそういう点に詳しくないから、生半可な知識で、『努力は大切』って言っちゃってる、と。凡人が才能に幻想抱いてるように、天才は努力に幻想を抱いてる。オモシレー。逆に、天才は才能を持っちゃってるから、その大切さがわからない。才能の無駄遣い。当たり前にあるものは、そんなすげーもんじゃねーだろうとあたりをつけて、『生まれ持った才能なんてそんな差じゃない』って、持てる立場から言うわけだ。むかつくなー。ソイツ。

「あなたですけどね」

 あたしなの?

(中略)

「ね?私の言いたいこと、わかったでしょう?子供向けの漫画とか小説とか、いえ子供向けじゃなくてもいいですね、夜のドラマ脚本や、有名な映画の台本でも、努力は大切だとか、生まれた環境は関係ないとか、そういうメッセージを発するじゃないですか。金持ちの格好いい王子様よりも、努力家の誠実な一般市民を愛する、とかでもいいんですけれど。あれって、建前上、あるいはマーケティング上、そう言ったほうがお客さんの受けがいいからそう言っているのかなって思ってましたけれども、最近は、ホンを書いている人は、ひょっとすると本気でそう信じているのかもしれないと、思うようになりました。単に聞こえのいい綺麗ごとを言っているんじゃなくて、才能あるクリエーター達が、才能の大切さをよくわかってないだけなんじゃないかって。彼らにとって物珍しい凡庸を、本気で美しく表現しているだけじゃないかって」

 知らねーよ。そんな視点で作り物のお話しを見てねーよ。なんで娯楽作品をそんな風に悩みながら見てんだよ。素直に作品世界に入っていけ、馬鹿。



 以上です。…西尾氏は上記の文章をおそらくそんなに真剣には書いておらず、「そういう見方もあるよね」という程度のやりとりかと思うのですが、私は案外このやりとりに現代日本の本質がある気がするのです。

 

3.成功者と自助・自己責任論


 まず、私が『人類最強の初恋』を読んだときに、真っ先に頭に浮かんだのは幾多のアスリートとオンラインサロンを開いているキングコング西野氏やホリエモンのことでした。


 アスリートはまぎれもなく才だけではなく努力もしている人々です。だからこそ、中には自分の人生は全て自分の力で切り開いたと考えている人、自己責任論が強い人もいます。サッカーの本田選手などはその典型です。

 

 …ですが、考え方を変えるとアスリートというのは勝ち負けのシビアな世界で生きてはいますが、人生においては案外レールがしかれているのではないかとも思うのです。幼少期から才がある者は見出され、特別扱いをされ、エスカレーター式に日本代表へたどり着く。そこにたどり着けなかった人は途中で別の道へ迂回していくわけですが、それにしたって部活の成績を利用してのAO入試、社会人チーム加入を条件にした就職、児童クラブの指導者、そして体育教員と身に付けた技術をもって生活するルートが伸びています。


 努力の内容にしても、何を努力するかは明確です。無論、サッカーをうまくなるために何をすべきかは考えだしたらきりがないほど多様なのでしょう。でも、それでもサッカーという1つのステージの中で、コーチなどの指導をうけながら安定したリターンの努力を継続していっているわけで。そこには「役にたつか立たないか」という博打のような危険性はありません。

 ところが、一部のアスリートはそうした事実に気付かない。自分は「人より努力をし、自力でこの地位を手に入れた」と、無批判に信じている。結果、注意しないと無自覚に「成功していないのは本人の努力不足だよ」と思ってしまう点がある。


※参考として本田氏が日本の自殺率の高さに対して行ったtweetも載せときます。

「他人のせいにするな!政治のせいにするな!!生きてることに感謝し、両親に感謝しないといけない。今やってることが嫌ならやめればいいから。成功に囚われるな!成長に囚われろ!!」



 ……ロールズという学者が言いました。才能のある者が成功するのは、たまたまその才能が成功に繋がる時代だったという意味で、運が良かったのだ、と。


 つまり、本田氏について言えば、たまたまサッカーという玉ころがしゲームが世界中で流行しており、それがうまいことによって賃金を得ることができる社会が成り立っていたからこそ彼の成功はある、という考え方になります。

 無論、本田氏ほどの人間になればサッカー以外のものでも成功できたのかもしれません。それでも、たとえば生まれたのが江戸時代の農村であれば、基本は畑を耕して終わっていたのが現実です。

 

 ではオンラインサロンを開いているキングコング西野氏やホリエモンの場合はどうでしょうか。彼らはある意味でいえばアスリート以上に成功の確証を持てない世界で戦い、結果を残してきた人々です。

 さきほどアスリートは見方を変えればエスカレーター式に進路が決まっていくといいましたが、芸人や社長といったものは自分で時代の流れをよみ、あっているかどうかはわからない中博打のように勝負を打っていく勇気が必要となります。

 

 そうした意味でいうと、個人的な印象としてはアスリートより芸人や社長の方がまだ「失敗した者への目線」を持っているように感じる。いや、まあ西野氏やホリエモンはかなり厳しめだと思いますが、一方で「失敗しないように俺の成功したメソッドを教えてやろう」と思っているのは事実ではあるのでしょうし。

 

 ところが、彼らは肝心な点を見逃しているのです。

 それが、自分の持っている「才能」です。

 当然、彼らも自分が人より「才」があると自覚はしているのでしょう。でも、彼らはその「才」以上に、「自分自身の努力」によって成功を勝ち取ったと考えているのです。そのため、彼らの言動の中には「自助・自己責任論」が常につきまとう。


「こんな時代でも、努力すれば俺のように立派に生きていけるんだ。あとはやるかやらないかだ」


というように。

 

 ところが実際は彼らほどの「才」がなく、また「運」にも恵まれなかった人々は、どんなに彼らの言葉に心を動かされ彼らの言う通りに行動したとしても、彼らのような成功にはありつけない。結果、「まだ努力がたりない!まだたりない!まだ…」と無限ループに陥ってしまう。

 そもそも自分ではどうしようもない貧困状況に置かれた人間は、その教えを実行するだけのパワーすら失った状態であることも珍しくはありません。一見正論めいた言動は弱者を傷つけることがあるのです。


 …例えば堀江氏の言動について、社会福祉学者の金子充氏は以下のように論じています。

 

『入門貧困論』金子充著 明石書店


 ホリエモンはある著書のなかで「窮地に追いやられた人たち」に向けて次のようなメッセージを書いている。


『仕事をクビになったとか、家族に捨てられたとか、借金取りに追われるなど、窮地に追いやられた人たちに、あらためて考えてもらいたい。いまの人生が最悪で、どん底だというのは、ただの思い込みだ。だけど、あきらめてはおしまいだ。仕事なんか選り好みしなければいくらでもあるし、家族がいなくても生きていけるし、借金は踏み倒したらいい』(堀江2016、p134)


 この言葉には多くの人々が共感し、支持しそうな要素が詰まっている。

 多くの人々はこうした勇気をもらえることばや考え方に基本的に賛同するであろう。

 引用文は、まさに不遇な人々や生活に困窮している人々に対して、そうでない多くの人々が抱いている「貧困観」をストレートに表現している

 現代では、個人には自由やチャンスが与えられていて、自分で自分の人生をきりひらいていくべきだという考え方や見方が支持されている。だから、窮地に追いやられたとしても甘えや依存は禁物で、当事者を突き放すことで立ち直らせるのがよいとなる。もちろん、ときに失敗してしまうのもわかっているが、基本的には自分の人生や生活をうまくはこべないことは本人の努力不足によるもので、自己責任の問題とされる。だから環境や境遇のせいにすべきではないということになる。ただし、本当に困ったら福祉に頼ってもよいと考えられていて、堀江もそのような最低限の生活保障を指示している(彼はベーシックインカム論者のひとりである)。


(中略)


 堀江は弱者にやさしい態度をとっているが、自助・自己責任が基本だと考えるゆえに「がんばろうとしていない人」や「不遇な立場にいるのにみずから改善しようとしない人」に対しては激しい攻撃の言葉をあびせる


『不満があっても、変えようとしない。現状を維持する方がラクだから、そうしているだけ。大きなチャンスを失っていたり、誰かに不当に搾取されたりしているのに、じっと耐えている。「いろいろ不満だけど解消する方法がない」と、自分の不遇を環境のせいにして、本当はただラクしたいだけなのだ』(堀江2016、p182)


 

 いかがでしょうか。本田氏の件も含め、なにか繋がる点はありませんか。


 

4.貧困が自己責任化する社会


 現代日本では上記したアスリートやホリエモンその他大勢の「自分は努力してきたから成功した」と信じる方々がテレビやインターネットを席巻しています。

 彼らは決して「自分に才能があったから」「自分は運が良かったから」とは言いません。  

 むしろ、「俺も苦労したけど努力したから成功したよ。動かなきゃ何も変わらないよ」とやさしく説く。一方で、自分から動かない人々に対しては叱咤する。

 こうした風潮が我々「そこまで才はない人間」にも波及し、「成功するかどうかは自己責任であり、現状を変えるためには動かないといけない」という思想が根付いていく。


※学校に今後取り入れられるという「金融教育」もまったく同様の自己責任論の上になりたっています。「ちゃんとお金の使い方を学んで、自分でお金を増やしていくんだよ。そうしないと、下流の人間になってしまうんだよ。下流に落ちるのは自己責任なんだよ」といった脅迫が、学校においても行われていくわけですね。


 こうした「自助・自己責任論」が主導する社会だからこそ、冒頭に示したような方はどんなに頑張っていても、努力していたとしても、「自分は努力した」と胸を張って言えないのです。なぜなら「結果が伴っていないから」。


『現状成功できていない=自分の取り組み方が悪い=もっと努力しなくてはならない=つまり今までの努力は不足か間違ったものである』


 こうした思い込みに支配されてしまうと、悲劇です。自分の努力を認められないのは自分を嫌いになる要因です。そしてそうした自信喪失状態になっている方に更なる悲劇が降りかかります。「才」か「運」を持ち合わせていた人の効率のよい働き方に憧れ、彼らのやり方を真似しようとしてしまうことです。無論、彼がそれをこなすに足るだけの「才」や「運」を持っていれば新しい労働パターンを作りだすことも出来るかもしれません。

 ですが、自分に自信を失っている状態で新しい生き方を積み上げていくという行為は、下手をすればその人が本来もっていた良さまで消していってしまうことになります。思考錯誤してどうすればよいかわからなくなってしまえば「自助・自己責任論」にうもれ精神の安定を欠いていくか、どうにもうまくいかない感覚をもつ「ルサンチマン」になるしかありません。どちらも本人にとっても周囲にとっても不幸な展開です。


 …世の中には自分だけではどうしようもない状況なんていくらでもあるものです。ぬっぺふは自身の不祥事、相談員としての経験を通じてそれを痛感しました。

 努力するためには心身の健康が必要ですし、人生経験の中でその自分への自信を打ち砕かれてしまった人も沢山存在します。1代家庭環境が崩れれば立て直すには3代かかるとも言われる昨今、表向きは耳障りのいい「自助・自己責任論」によって人々は余計追い詰められてはいないだろうか、と思うのが正直なところです。


 ともかく、ネットやテレビ上に溢れる成功談は心が疲れているときは聞かないことが一番です。どうせ聞くならば失敗談の方がいい。人の成功の仕方は様々な要素に左右されますが、失敗する形というのは案外パターンが決まっているものです

 

 そして失敗する形の最たる例として出てくるのが「自分に自信を失ってしまうこと」。「自分は無駄な努力をしているのか?」と思ったり「要領がわるい・・・」と悩んでいる方。無駄かもしれないし、要領は悪いかもしれませんが、それでも頑張っている自分自身の努力は認めていきましょう。そうしないと自分の味方が、いなくなってしまいます。

 間違っていたとしても、要領が悪かったとしても、その瞬間を本気で努力していたということは認めていかないと、自分は何もできないパワーレスな存在だと脳が錯覚していってしまいますので・・・



 

5.最後に


 さて、長々と話してきましたが最後に。

 今回、現代日本に根付いている「消費社会」と成功者による「自助・自己責任論」が昔ながらのコツコツ努力タイプから自信を奪っているという所から話が始まったわけですが、この目線を学校にも当てはめてほしいのです。


 教員という仕事をしている人々は自身では自覚していないかもしれませんが、世間的に見ればそれなりの「才」も、「運」も持っていた人になります。ですが、案外そのことには無自覚だったりしませんか?今の自分の生活を、所得を、立ち位置を、なんだかんだ「自分の努力だけで獲得してきた」と思っていませんか。

 

 …生徒に努力の大切さを伝えることは重要です。ですが、その際に安易にアスリートやホリエモンといった成功者、また自身の体験を伝えていくことは生徒に「自助・自己責任論」的な世界観を植え付ける元になってしまうかもしれません。ただでさえ、彼らは既に「消費社会」を生きています。「自助・自己責任論」との相性は非常にいいですよ。


 このまま「自助・自己責任論」が蔓延すると何がおきるか。上記した金子氏も述べているところなのですが、「貧困者自身の態度や行動が貧困問題をいっそう深刻化させている」と一方的にきめつけ、彼らを軽蔑すること(=当事者非難)が起こってくるのです。本来格差社会の犠牲となったはずの当事者が、逆に責められる。

 その結果、本来連帯しなくてはならないはずの弱者は分断され、結局為政者や成功者のいいように扱われてしまうようになっていきます。それは避けなくてはならない。


 とくに教員には高学歴者も多いですが、実は高学歴者や社会的地位のある人間ほど「努力しないもの」「低所得者」「デブ」などへの差別感は強いとされています。無意識の内に抱えていた差別感に、アスリートや成功者の言葉は根拠を与えてくれる。だからこそ、気を付けなければならない。

 私は校長講和でアスリートの話しかできない人が大嫌いだったのは、そうした違和感からだったんだなあと遅まきながら気付いた次第です。


 ということで、「天才は努力に憧れる」というテーマから大分話が広がってしまいました。今回はこのへんで。

では、またいずれ!






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