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生き辛さの原因はどこ?


 どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士でピアサポーターのぬっぺふです。


 書きたいことが山のようにありすぎて後手に回ってきていましたが、不祥事を防止するには本人の「生き辛さ」を見つめることが重要なのは確かです。

 そこで今回は「生き辛さはどこからきているのか」について、概略編として情報提供をさせて頂ければと思います。

 

 不祥事の有無は関係なしに、「なんだか生き辛いお」という方は「またこういう自己啓発系ブログかよ、ケッ!」と私のようなひねくれたことはおっしゃらず、ぜひお付き合い頂ければと思います。



 さて、まず最初に注意点です。この記事は凡百の自己啓発サイトやまとめサイトのように「生き辛さの解決に向けたアドバイス」をお伝えするものではありません。なぜなら、解決方法自体はなんとなくわかっているけれど「わかっちゃいるけどできねえんだよう」という方の方が多いと思うからです。


 ・・・そういう時に「こうすればいいよ★」的な情報提供をされると、「あ、結局そういう対応ができない私が駄目なんですねー」と辛くなったりしませんか?私は辛くて仕方がありませんでした。

 

 正直、生き辛さの解決方法はどんな方法でもいいと思います。

 山の登り方は色々ありますが、滑落さえしなければいつかは頂上に辿りつきます(あくまで例えなので理論上の話です)。

 なので、どう生きたらいいかという模範ルートを探るよりも、まずは自分の状況を知っていくことの方がよっぽど価値があると思います。

(どう考えても山登りに適さないハイヒールを履いているのを知らずに、装備万端な山男の教えてくれる「最短ルート」を行こうったって難しいはずなのです)

 

 なので、今回の主軸は「わかっちゃいるけどできない。その理由はなんなのよう」といった部分に対して、ぬっぺふの経験と各種論文、また相談業務の中で出会った方々を元に、あくまで「こうした点が生き辛さの原因となっているのかもしれませんよ」という情報提供です。

 

 そのため、「私は違う」「ぜんぜん該当しない」といった印象を持つ方も多いかもしれません。それでも、今回の記事の内容を頭の片隅には入れておいて欲しいのです。


 なぜなら、脳は嘘をつきます。自分の見たくないこと、気付きたくないことはなかなか気付かせてくれません。特に傷ついた状態でなお仕事に向かっていくような外部に対応しなくてはならない敵がいる状況ではなおさらです。

 本当に自身の生き辛さの原因となっているような部分は案外「そんなもんでしょ」と軽視していたり、なかったことにしてしまっていたりすることも起きます。


 ですが、何らかのきっかけによってそうした外敵が落ち着き、ゆっくり自分と対話できるようになったとき。「あれ、実は自分もこういう部分があったかも…」「自分では大したことではないと思っていたけれど、実はこの経験、ずっと後を引いていた?」等と気付くことも出てくると思うのです。


 今回の記事はそうした種まきとしての意味もあります。腑に落ちない面があっても、是非最後まで読んで頂けたらありがたいです。 では、とりあえずいってみましょう!


 

☆可能性1

 『環境が悪い』


 極論を言えば、全ての生き辛さは「自身と環境の不一致」から来るものです。海で生きるのに適した体をもっているのに山で生きようとしたらそりゃ疲れますわな。


 幸い人間は他の動物と違い学習や技術を使ってある程度環境と自分達の調整をはかることができますが、自分の努力だけでは変えられないものもあります。他者です

 仲間の性格や所属する集団の根本的な思想といったものは一人の人間の力でそうそう変えられるものではありません。


 特に学校という場所はよくも悪くもガラパゴス化した空間です。よく言われますが、学校が変われば会社が変わるくらい文化が違います。今いる場所は、あなたが呼吸をしやすい場所ですか?


 「そんなことはない、環境は悪くない。私がなじんでいないだけで…」

 という方もいると思います。素晴らしい心がけです。なんでも環境のせいにしていたらそれはそれで問題です。ただ、時間の経過とともに逆に違和感が強まっていくという時は、環境と自分のミスマッチも疑ってみてもいいかもしれません



 

☆可能性2

 『実は発達の偏りや遅れがある』

 

 例えば、「他の人が簡単にできることがなぜ出来ないんだろう?」という生き辛さに関してはここに原因が隠れていることも多いです。

 代表例としては最近有名になってきた「発達障害」ですが、他にもIQが70~85前後の方(70以下が知的障害と一般的に呼ばれることもあり、このゾーンの方は境界知能と呼ばれています)もこうした悩みを持っています。

 

 なお、発達障害は定義上


  ①注意欠陥多動性障害(ADHD。イメージはクレヨンしんちゃんのしんのすけ)

  ②自閉スペクトラム症(ASD。人付き合いの苦手なKY&学者タイプ)

   ※②の内知的な障害がないケースはアスペルガー症候群と呼ばれています。

  ③広汎性発達障害

  (1つに限定できない時やよくわからない時に使える何でもBOXのようなくくり)

  ④学習障害(LD。ドラえもんののび太君。一部の勉強がとっても苦手)

 

 の4つとされていますが、実際の困りごとの内容はより多様です。同じ病名でも、困っている症状では正反対で例で掲げたものと似ても似つかないということもままあります


 なので、なんとなくネットで調べてみて「自分はここまでではないから発達障害ではないんだろうな」と早合点はなさらずに

 自身の中に少しでも「自分は発達障害なのかもしれない」と思う気持ちがあるのならば、ちゃんとした検査を受けてみるとより自身を把握できます。

 

 なお、「おいおい、おいらは精神科行ってみたけど診断でなかったゼ!」という方もいると思いますが、一応以下のことも知っておいてください。


 実は「生き辛さ」を抱えるのは、発達障害の度合いが「低い」人、いわゆるグレーゾーンと呼ばれる方の方がはるかに多いのです。

 診断が出なかったとしても、何らかの能力の凸凹があればそれは生き辛さに直結することはあります。そして、それは境界知能の人でも同様です。

 

1つたとえ話をしましょう。

 エンジンはF1カーだけれど、ハンドルとブレーキは通常車の仕様という車、もしくは軽自動車のエンジンを積んだ普通車で所謂普通の車と並走していく状況を考えてみてください。


 平らでまっすぐな道で時速40kmで走るのならばなんとか並走できるかもしれません。ですが曲がりくねった山道に入ったら?

 ・・・皆さんお気付きのように前者は発達障害、後者は境界知能の方の比喩となります。

 

 こうした傾向を持っている方は、長年の経験から自分なりの対処法を取得してきています。皆についていくために、頑張ったわけです。

 他の人についていくために休憩時間も運転をし続けたり、前方からやってくる車に気付いて避けて貰えるようクラクションをならし続けたり。時にはわざと仲間から離れることで自他を傷つけないようにしてきた方もいるでしょう。


 それでも、運転を続ける限り、必ずどこかにぶつかったり赤信号を突っ切ってしまったりということは起きてきます。大人になり道が複雑になってくるとなおさらそうした事故は起きやすくなります。


 そうした時に運転手(心)が「自分のドライビングテクニックがないからこうなるんだ」と勘違いしてしまうと悪循環の始まりです。

 

 車(体)の方に問題があることに気付かず、

「眠気が問題だ、カフェイン多量摂取!」とか「周囲のドライバー全ての目線を読んで予測して動かなくては!」など更なる無茶な対処法をとったり、運転するたびにつきまとうストレスをごまかすために酒や異性関係などに捉われていけば、存外簡単に依存症や精神病になってしまいます(いわゆる発達障害や知的障害の二次障害と呼ばれる状況です)。

 

 上記の例を見てもわかるように、重要なのは診断名を得ることではありません。自身のスペックを把握することです。例えばWAISという検査ではいくつかの指標にわけて自身の能力を表示してくれるため、単純な診断名以上に自分のことを探る手がかりとなります。


※なお、発達障害は正直とっても複雑で完全に把握するには多量の知識が必要なのですが、先述したクレヨンしんちゃんのたとえ話などで「わかった気になりやすい」という問題点があります。その問題点がどのような所で出てくるかは、またいつか別記事にてまとめたいと思います。



 

☆可能性3

 『実は既に病んでいる(もしくは病みかかっている)』

 

 これは、認めるのは怖い方もいるかもしれません。でも可能性の1つとしては考えておくべきです。


 まず疑うべきは鬱病です。

 鬱になると文字が頭に入ってきにくくなる、単純ミスが増えるなど脳自体の機能低下が引き起こされます。単純に気分が暗くなるだけが鬱ではありません。


 ところが、この鬱ですが進行は徐々にしていくため案外本人は自身の症状の重さに気付かないこともあります。

(私の場合、教職についてから専門書を読むのがとても遅くなりました。「活字離れしていたからかな、部活や行事ばかりじゃなくちゃんと教科も磨かなくちゃな」と時間をかけてごまかしていたのですが、今はさくっと読むことができます)

 

 「おいおい、オイラは精神科に行ったけど鬱認定されなかったゼ!」という方、いるかと思います。でも鬱も実は色々ありまして。そもそも昔ですら3種の鬱(外因性、内因性、心因性)が使い分けられていました。

 ところがある時アメリカでDSMという「質問に答えるだけで、誰でも簡単に鬱の診断ができるお☆」というツールが作られてしまいまして。本来まったく別の症状を示していた3つをいっしょくたに鬱の箱にぶち込んでしまいました。

 結果、「最近気持ちが落ち込んで…生き辛くて…」という人がくると大体そのツールで最初のスクリーニング(ふるいかけです)検査が行われるようになっていくのですが、問題は、このツールだと把握できない鬱もあるということです。


 例えば食欲や性欲、睡眠欲が落ちるというものが項目にあるのですが、鬱症状に対する自己治療的に何かに依存している場合は欲求は落ちません。また、鬱によってはむしろ眠気が強く感じられることもあります(でも眠りの質は浅いので睡眠不足なのですが)。

 

 私の場合は、職場に行く途中車の中でぼろぼろ涙を流しながら「死ね死ね」とつぶやいたり、「川に飛び込んでみたらどうなるかな」などと思いながら夜の散歩をするといった行為が不祥事を起こす2年前あたりから続いていました。身体症状としても急に眼が開けていられなくなる、先のことを考えると胸が苦しくなるなどおかしなことが続いていました。

 ですが、教員という職業は嫌なことばっかりじゃなくて楽しい瞬間もあるわけです。当時趣味も友人関係も仕事の多忙さから疎遠になっていた私にとって自信を削るのも仕事であった反面、自信をくれるのも仕事しかありませんでした。そのため、基本的にはどんよりとした気分の中教壇に立ち、むりやりアドレナリンを出したり、休み時間に眠気を払うためにポルノをトイレで見たり(楽しくはないのです。たばこみたいな感じです)、常に何かを口にいれていないと毎日を乗り切れないような状況を続けていました。

 

 そんなわけなので、精神科に行ってもスクリーニングにはひっかからず「ちょっとした抑うつ状態ですね。(やりたいことができなくて不満の溜まっている状態)」、鬱自体の可能性は放置されてしまいました

 ・・・あなたにも同様の状態は起こっていませんか?


 

 2つめの可能性としては双極性障害(≒躁鬱病)です。

 この病気、鬱病と同じものと捉えられがちですが、処方する薬も原因も違う、全くの別物です。

 気分が落ち込み意欲がでない時期と、逆に全能感に満ちてバリバリ仕事ができる時期が周期的に訪れます。後者の躁状態の時は性的な問題や浪費が起きる等、問題行動にも繋がりやすく、不祥事の原因にもなりやすいと思われる病気です。20~30代あたりで発症することが多く、正直当人には鬱病との区別はつきにくいと言われています。

 発覚のパターンとしてはまず鬱病で受診した患者が、その後の経過を見ていった際に「双極性」と診断される、という経緯なので、そもそも鬱のスクリーニングに外れてしまうと発見が遅れやすいです(そして先述したように浪費や性的逸脱と躁状態のときはばっちり欲望があるので鬱のスクリーニングにものりにくい・・・)。

 (なお、どうでもいい話ですがぬっぺふはおそらく主治医に双極性障害の可能性も視野に入れられており、気分の波を小さくするリチウムというお薬も処方されています)

 


 どんどん行きましょう。3つめは依存症です

 ストレスを解消するためには脳内でドーパミンという物質が出ることが重要なのですが、このドーパミン、面倒なことをしなくてもお酒、たばこ、ポルノ、ギャンブル等によって簡単に出すことができます


 教員という仕事はどうしても多忙です。まっとうであろうとすればするほど多忙になるのが教員です。

 そんな中、以前ならば友人関係や趣味によって満たすことができていたドーパミンが不足し、手軽に出せるアイテム(もしくは行動)に依存していくと簡単に依存症の出来上がりです。

(お酒で言えば毎日日本酒2合以上飲んでいれば立派なアルコール中毒と認定されます。案外簡単になってしまえるものなのです)


 このドーパミン、基本は達成感のある時に出るものと思ってください。なので、教員として授業がうまくできたり、行事がうまくいったりしたときにも脳内にはドーパミンが分泌されます。


 ですが、依存症の怖いところとして「依存している物質(行為)以外から来る報酬(≒ドーパミン)は次第に感じにくくなっていく」「脳の機能自体がおちていく」という副作用があるのです。こうなると今までうまくいっていた生活が次第に回らなくなってきます。


 ・・・私のような性に依存したケースであれば無論性的な不祥事に繋がりやすくなります。また、アルコール中毒は実は非常に致死率の高い病気です。鬱と合併すると自殺率が高まりますし、こちらはもし不祥事につながらなかったとしても自身や家族に与える影響はとても大きい病気です(後述するアダルトチルドレンはもともとはアルコール中毒者の家の子どもという概念でした)。

 他の依存症についても「それ以外からの報酬を感じにくくさせる」ことで今まで楽しいと思えたものが楽しくなくなってしまったりすれば、それを理由に鬱的な側面も促進される原因となることがあります。


 4つめの可能性は、オーバーワークによる能力低下です。

 脳機能は疲労でも落ちます。鬱や依存症が起きていなかったとしても長時間労働は徐々にスペックを下げていきます。また、ワーカーホリックという単語がありますが、ある意味一つの依存症の側面からも生き辛さの説明になるかもしれません。

 仕事でしか達成感を得られなくなってしまっているために、ストレス解消法も効かなくなっていってしまうのです。こうした状況では、ストレス源から離れられないため長期的に疲弊し隠れ鬱のような状況になっていく他、より強い解消法をもとめて別の依存にもうつりかねません。

 

 教員には非常に多い過重労働ですが、やっぱり健全な教育現場のためには過重労働を「本人が好きでやっているから」と見逃し続けるのはよくないのだと思います


 5つめは「高次脳機能障害」です。

 こちらはケースとしては少ないかもしれませんが、過去頭部に強い外傷を負った経験がある方に関しては可能性を疑ってみてもいいかと思います。


 聞きなれない言葉かもしれませんが、簡単にいうと「外傷をもとに、後天的に発達障害や知的障害のような状態になる」というものだと思ってください。

 この高次脳機能障害の場合、本人が病気の症状に気付く(≒病識をもつ)ことがとても難しいと言われています。


 そのため、周囲から「最近変わったね」「大丈夫?」といった声をよくかけられる&頭部をぶつけるようなことがあったという方は、念のため検査を受けてみるのもいいかと思います。

 

 最後は「パーソナリティ障害(人格障害)」です。

 精神的には問題なし、知的にも問題なし、依存症もなし、けれど、「性格が病んでしまっている」というケースです。

 内容については正直まだ整理されきっていない面もあり(精神医学会ではそもそも性格のことまで障害として扱うべきなのか?ということで意見もわかれています)、また別の機会にまとめてみようかと思うのですが、いわゆる「かまってちゃん」「メンヘラ」と言われるタイプの性格などが例として挙げられます。

 ※かつては全10タイプの性格が掲げられていましたが最近また再編されてます。


 ただ、これについてぬっぺふ的にはそうした性格になってしまう背景として、上記した発達障害やこのあと説明する家族関係の問題が核にあるものと思っています。

 もし仮に自身が「パーソナリティ障害」に該当する性格だったからといって「だから私はだめなんだ」というわけではないのです。そういう性格を作らざるを得なかった背景があるはずなのです。むしろよく生き辛い中生きてきた!と言わせて頂きたいです。

 なお、一般的に治しにくいと言われている「パーソナリティ障害」ですが(性格なんだから当たり前なのです)、土台に何がよこたわっているのか、を知ることで対処できることが増えるのは確かです。



 

☆可能性4

 『実は家族との関わりの中で問題を抱えている

(もしくは抱えていた)』

 

 これについては気付きやすい人と気付きにくい人がいるかと思います。今回は代表的なものとして3つ紹介したいと思います。


 ①愛着障害

 

 最近認知されることが増えてきました。人間は幼少期に親との間に愛着が形成されることが重要で、それができなかったときその子の発達に問題が出てくる、というものです。愛着というとわかるようでわからないかと思いますが、簡単に言うなら「なつく」ということだと思ってください。


 動物がなつくのはそこに安心感があるからです。自分を大事にしてくれているという感覚があるからです。なついているからこそ躾ができます。躾けるからなつくわけではないですよね。


 人間も同じです。親との関係で安心感があれば、大事にされているという感覚があればこそ親からの言葉も受け止められますし、安心して反抗期に入ることができます。反抗期は自我確立期とも呼ぶことがあり、成長には大切な時期です。


 こうした環境が整っていない(親の期待が強すぎた、しつけが厳しすぎた、逆に放任だった、虐待されていた…)と、子どもは安心感を持てず人の顔色を伺ったり、人との関わりを避けることで回避したり、わざとピエロになることで関心を得るとともに家族間の調整を図ったりと無理をして生きる道を選んでしまったりします。そして本質的には埋まっていない承認(あるいは愛)を求めて、右往左往するのです。


 この愛着障害、発達障害とも相性がいいので併発するケースもあります。

 なぜなら発達障害の子どもは定型発達(=いわゆる普通の子です。普通って何?という疑問もありますが)の子どもに比べ、育児が大変なケースが多いです。


 言っても聞かない、目があわない、すぐに飛び出していってしまい連れて歩けない…etc,etc


 昔であればそうした子どもも地域の中でゆるやかに見守りながら育てることができました。でも今はワンオペ育児といいますか、親の負担が非常に大きくなっている時代です。結果、親の方がそうした大変な育児負担に耐え切れず、愛着形成の時期を逃してしまうことになりやすいのです


 ②家族システム論的観点

 

 家族システムという言葉があります。これは「家族というものは1つのシステムであり、個々のメンバーが必要な役割を演じている」というものです。家族の最小単位である核家族を例にすれば、父・母・子の3つの役割があって1つの家族というシステムが回っています。

 このシステムは、どこかが破損しても回らないのです。

 では片親であったり父がろくでなしであったりする場合はどうなるのか?

 結論から言うと、子どもがその子ども以外の役割を果たさざるを得なくなります


 例えば長女が母の役割を、母が父の役割をしたりです。親がアルコール中毒であったり精神障害であったりで他者の介助が必要な状況であったりすると、変な話ですが父が子の役割を演じるなんてことにもなってきます。


 結果、子どもがのびのびと子どもをできずに過ごすことになり常に心の中に満たされなかった幼少期の感覚を引きずることになったりしてしまい、生き辛さに繋がってしまいます。いわゆるアダルトチルドレンという状態です。

(誤解されている方が多いですが、アダルトチルドレンは子どものような大人を指す言葉ではありません。幼少期から大人でいなくてはならなかった子どもが語源です)



 この家族システム論は何も幼少期に限ったことではありません。例えば配偶者が仕事ばかりで一切家のことをやってくれない場合、自分が父と母二つの役割を果たさざるを得なくなります。こうなってしまうと、異なる2つの役割の中で葛藤が生じ、精神的に不安定になってしまうのです。

 今、あなたの置かれた状況はいかがですか?


 ③家族の呪い

 なんじゃそりゃと思うかもしれませんが、そう大層なものではありません。たとえば「うちでは夕食は必ず家族そろって食べるんだ」とか「バラエティ番組はうちでは見ないんだ」とか「うちのカレーにはちくわがないとダメなんだ」といったものです。家族ルールといいますか。


 ですが、こうした家族内の当たり前も時に人を縛り続けます。たとえば「うちは医者一家だからお前も医者になれ」というものや、「テレビを見ている連中は馬鹿だ。ああはなってはいけないぞ」というもの、政治的思考や宗教的な思想もこの中に入るかもしれません。


 こうした考えは自分が幼い頃から自然と入り込んでくるので、価値判断基準の根っこにまで入り込んできてしまうことがあります。すると、あら不思議。家族の中の文化でしかなかったはずのものが自分自身を縛る鎖となってしまうのです。


 本当はもう勉強はしたくない。けれど「うちは頭がいい家系」だから頑張らないといけない・・・

 「家族でごはんを食べる」のが普通だ。だからあの生徒の家でもそうして貰わなくては・・・

 

 極端な例かもしれませんが、こうした幼少期のすりこみは大人になってから気付かぬうちに自分の行動原理となってしまっていたりします。ですが所詮家族内でのルール、社会に出れば全くことなったルールと対峙することも、家族の呪いを遵守し続けることも難しい場面は必ず出くわすわけです。


 こうしたとき、「なんだかわからないけれど周囲とうまくいかない」「私は間違っていないはずなのに」という生き辛さに繋がっていくことが起こります。


 

☆可能性5

『自分に呪いをかけてしまっている』


 いよいよ最後となりました。先述した家族の呪いも含め、上記の可能性1~4全てと卵とにわとりのような関係になっているのがこのタイプ。

 「自分に呪いをかけてしまっている(あるいはかけられた呪いがとけていない)」という状況です。


 心理学の世界ではエリスという学者の唱えた「誤った信念(イラショナルビリーフ)」とよばれるものにあたります。

 ※ちなみに高校の教科書にも載っている内容ですよ!

 

 たとえば「~べき」思考と呼ばれるものがあります。こうでなくてはならない、という固定概念、言い換えれば呪いです。


 ・・・本来世の中は無常、常に移り変わるもので確たるものなどありません。人を殺してはいけないという教えでさえ、正当防衛の状況下では変わります。


 そうした曖昧な世界において「それでも人として大切な何かを伝えたい」、そう思うからこそ教員を続けていると思うのですが、「伝えたい」が行きすぎて「伝えなくてはならない」となってしまったりすると辛いです。

 教育ができるのはあくまで種まきです。環境整備や肥料を与えることもできるかもしれませんが、その花をいつ咲かせるか、もしくは咲かせないかは最終的には本人次第で、こちらが強制できるものではありません。


 また、「自分という人間はかくあるべき」という思いが強すぎることも生き辛さに繋がります。こうした思いは必要以上の自己責任論に繋がり、なんでもかんでも「自分の努力不足」に繋がってしまいがちです。

 



 さて、よくあるパターンではここから

「なので、べき思考にとらわれないようにしましょう!そのためには色んな経験をすることです!」

とか

「ゆとりをもって自分を客観視できるようになりましょう!」

とかになってくるわけですが、そこまで私は求めません。だって思考の癖を変えるのってすごく時間がかかるんですもの。自分自身できてないことを人様に強要できません。


 とりあえずは無意識のうちに自分がそういう思考に陥っているのでは?と、そこに気が付けたなら100点だと思います。次に繋がりますので。

 傾向が見えてきたら、なぜ「べき思考をやめられないのか?」「なぜそのように考えてしまうのか?」と思考を深めていくとやがて原因がおぼろげに見えてきます。変えようとする前に、探るのです。するとそこには上記の1~4のようなものが隠れているはずです。絶対。いや多分・・・。もしかして。



 

☆最後に


 以上、5つのパターンをお伝えさせて頂きました。

 なおこの5つがいくつか併存するパターンも多いですが、その場合はまず鬱から対処した方がいいとされています。


 鬱は思考の土台がぐらついてしまう病気です。土台がぐらついている状況の中、上に積み上げられた「あなたの思考の癖」や「人格」というものを分析し、変えていこうというのはまず無理な話です。

 下手すれば人とは違いながらもなんとかバランスを保っていた積み木を崩してしまうことにもなりかねません。まずはぐらつきを納めることが先決です。

 ぐらつきが収まれば土台がどういう形をしているのか、その上にどのような形で思考回路がくまれているのかが見えやすくなってきます。


 


 …とまあ概略といいつつかなりの文量になってしまい申し訳ありませんでした。

 ともかく、タチはすぐには変わりません。でも、自分のタチを知ることで「どんな工夫があれば楽になるか」対処法を考えることができるようになります。


 上記以外にも生き辛さのパターンはあるかと思いますが、よくあるパターンとしてこうしたものがあったなあと、参考にして頂けたら恐悦至極です。


 では本日はこのへんで。


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