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発達障害について③(彼らが活躍できる学校のあり方とは)



どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士でピアサポーターのぬっぺふです。


今まで「発達障害について専門的にまとめたページは他にもたくさんあるしー」と思って自分ではまとめてはいなかったのですが、ブログ内で散々「自身の傾向について知ることです」とか言っているわりに「あとは自分で調べてね」はちょいと不誠実かと思い…


 自身の知識の振り返りも兼ねて少し発達障害について概論をしていきたいと思います。




 教員にとって、発達障害の理解(あと今後は愛着障害も)は今後必須事項となってくるはずです。それは自身について知ることで自身の不祥事教員化を防げるということもありますし、生徒に対してその目線を向けることで困った生徒(=困っている生徒)へのアプローチが変わってくる(結果として関わり方もよりソフトなものになりこれも不祥事防止に貢献する)ということがあるかと思います。




 なので、少し長い内容となってしまうかもしれませんが、お付き合い頂ければ幸いです。


では、行ってみましょう。今回は「当事者がどのような困りごとを抱えるか、そしてそれらに対して学校は何ができるか」にです。




 

1.当事者理解のための諸情報

 

 まず、発達障害から二次障害をおこし不祥事教員になった男の体験談であれば当ブログをご覧ください。どんなことを考えているのか、欝々と長々と記載させて頂いております。(正直自分で読むのも結構辛いのです。病んでる時は自分に酔ってるような時もあり、妙に詩人風というか…)


 以下ではいくつかの本や講演から当事者の遭遇する困りごとについて抜き出してみたいと思います。

 

①『発達障がい児本人の訴えⅠ・Ⅱ~龍馬くんの6年間』東京教育技術研究所 刊

 

 発達障害をもつ少年が夏休みの宿題として自身の体験を50ページほどにまとめたものになります。


・障害は、眼に見える体の障害ならすぐみんな「障害があるんだ」とわかってもらえます。…「広汎性発達障害」は「変なやつ」「ウゼーやつ」としか思われません。僕は僕の障害についてみんなにわかってほしいとずっと思っていました。でも、障害から起きる僕の問題行動のため、嫌われ者になっただけでした。障害のことをわかってもらうことはできませんでした。


以下は抜粋


・自分で考えて行動しろと言われると、何をすればいいのか分からなくなる

・表情や身振りで何かを伝えようとされるけどさっぱりわかりません。はっきり言われないとわからない。混乱してしまうだけ。

・やってはいけない事、迷惑な事をしたときにはっきり言葉で言わないで、たとえ話で話をされると、さっぱりわからない。必要な言葉で、はっきりと伝えてほしい。

・「こうやって」と指示されてわからなくてできなかった。

・「どんな感じですか?」「どんな様子ですか?」「どう思いますか?」という質問をされる。僕の頭の中は、意味が全然分からずチンプンカンプンになる。

・自分の声の大きさがわからず、音楽の合唱で自分だけ大きな声がでてしまう。

・手のコントロールができないからバランスよく字が書けません。「きれいに」「ていねいに」と言われるけど、何がきれいなのか、何がていねいなのかわかりません。



 

②「精神医療がASD者の人生に及ぼす影響について」

NPOリトルプロフェッサーズ片岡聡氏スライドより


①発達期の困難(乳児期)

・ハイハイせず手をつかった「ずりばい」

・ひどい夜泣き

・3歳にならないうちに絵本を一冊暗記

・掃除機の音を極度に嫌う

・幼稚園でパニックを起こし部屋に内鍵をかけてたてこもる。

 他の園児と遊ばず一人遊び

・弁当のおかずは卵とソーセージしか食べない

・近所のあだ名は「はかせ君」

・忘れ物はクラスで断トツトップ

・体育、図工は全くダメ。他の科目はクラストップ


②保育園時の困難

・一度も昼寝をしたことがない

・他の園児が遊んでいる声が音の洪水に聞こえた

(後働いていたときは聴覚過敏と聞き取りにくさでトイレで携帯をうけていた)

・左右失認があった(今もある)

・相貌失認(いつもにこにこ。挨拶強迫で電柱にも挨拶)

・先生が相手をしてくれたが友達はいない

・一度だけみんなの前で絵をほめられたことがあって非常にうれしい記憶として残っている(他の子が省略して書くところを私は細部まで省略しなかった)

 ※省略はASDは苦手です。


 

③『こんなとき、どうする?発達障害のある子への支援』ミネルヴァ書房 著:内山登紀夫氏等 より


ア アスペルガー症候群のある子どもの学童期・思春期

・小学校に入学し、学校生活の習慣やルールを守り、教師やクラスメートと交流していくことはかなりの負担。

・学童期には、自分が周囲と違うこと(自分の特異性)に気付くようになる。例えば自分だけ通級指導をうけていたり、通院していたり、心理テストをうけていることに疑問を持ち始める子も多くいる。


※こうした周囲とのズレの認識については知的障害をもっている自閉症の子でも同じで、テレビ等をみながら「自分は大人になってきているはずなのに、なんだか子どもみたいだな」という違和感を抱えている面は見られるようです。


・アスペルガー症候群の場合は、かなり複雑な言葉をつかえるためにコミュニケーション能力があると見られがち。でも実際は言葉の裏の意味や皮肉などの微妙な表現は理解しにくく、実際の会話では内容を十分に理解できないことも多い。結果、不安や被害者意識をもつこともある。

(「ほんとにー?」という相槌に対し激昂。「僕は嘘つきじゃない!!」)


・思春期は心身の変化や社会的な変化が大きく、これらに対応するのは定型発達の子であっても大変。いわんや発達障害をや。


中学では科目担任制となるため、関係する複数の教師が本人の特性を共通理解すること、連携することが必要になってくる。それが出来ないと、教員によって認められたり、一方ではしかられたりと対応が異なってきてしまい、本人の混乱に拍車をかけてしまう。


イ ADHDのある子どもの学童期、思春期

・忘れ物がおおい、伝えるべき連絡事項を伝えられないなど、不注意のせいでしかられる機会が増えてくる

・衝動性の強い子は、授業中にじっと座っていることも苦手。

・不注意や衝動性を、教師や保護者、クラスメートから注意されたり笑われたりすることで、自己否定的な感情を蓄えてしまうことが一番の問題点。

・なお、周囲が非難したり嘲笑したりしなくても、自分で悩み自己否定感を持つ子もいる

・ADHDの子は自分にできないこと、苦手なことに気付いていることが多く、自分なりに努力しているのになかなかそれが実らないことに悩み、自己否定感を強めていく場合が多い


ウ LDの子の学童期、思春期

・テストで問題を理解し、解くことができても、文字の書き間違いや単純な計算ミスのために低い点数しか取れない

・上記のような点を叱責されることが増える

・いくら勉強しても成果がでない自分に嫌気がさす可能性あり


 

2.どのような姿勢で彼らと向き合えばいいのか


 まずは先に挙げさせていただいた『こんなとき、どうする?発達障害のある子への支援』より抜粋したものを見てみましょう。


 

①アスペルガー症候群のある子どもの学童期、思春期への支援法


「この年齢ならわかるよね」「このくらいはできるよね」そうした思い込みを捨て、本人が何を苦手とするのか、何ができていないのかを正確に捉えていくこと


本人が理解でき、興味がもてることを中心に教えていくこと


周囲との違いに気付いた時は、本人の長所を中心に丁寧に説明をして、長所で苦手な面を補っていく具体的な方法を本人と一緒に考えていくこと


会話の時は、本人がどのくらい理解しているかを確認しながら進めるようにすること


思春期の身体の変化が起こる理由や、対処の仕方は具体的に伝えること


②ADHDのある子どもの学童期、思春期への支援法

ア 苦手意識を強めないよう、得意を積極的に認めること


イ そのために、周囲の刺激を調整したり、今求められている行動をはっきりと伝え、うまくできたことを1つ1つ肯定的に評価すること


ウ ともかく大切なのは自己肯定感が持てるように配慮をすること


③LDのある子どもの学童期、思春期への支援法

ア 学習面の苦手さをどのようにカバーするかについて工夫が必要

  例 漢字をかくことが苦手な場合はワープロの使用を認める

    単純な四則演算については計算機の使用を認めることも視野にいれていく


イ 中学校の英語で「スペルがどうしても覚えられない」というケースも出てくる。

  ⇒スペルよりも会話力を重視する指導や評価方法を取り入れることを検討


 

 いかがでしょうか。上記は私が研修で例として説明された一部分の内容ではあるため、実際の配慮すべき点はより多岐にわたることかと思われますが、関わる上での重要点は十分拾うことが出来るのではないかと思います。

 それは、


 ①本人の目線にたつこと

 ②本人の努力を認めること

 ③その上で環境面で調整できる点については臨機応変に整えてあげること

 ④本人の自己肯定感を養っていくこと

 

の4つの軸です。


 そのためにも、支援者は「ふつう」という暴力に注意しながら関わらなくてはならないのでしょう。なぜなら、彼らは普通になろうと十分頑張っているのです。あるいは自身の周りの環境を変化させることで相対的に周りに溶け込もうと苦慮しているからです。

 叩くのもつねるのも過食するのもうつになるのも、全部彼らのチャレンジの結果です。

(従来は問題行動と捉えられていたものをチャレンジング行動と捉えなおす試みが昨今は福祉現場で増えてきています)

 それでも環境は変わらず、「普通」とみなしてもらえないから苦しむし、最終的には反発か安全地帯(夜の町、自室)に逃げ込むかしか道が無くなってしまう。


 彼らと向き合う側にはそういう意味で「ふつう」を強要しない心のゆとりが必要です。

 学校現場等で発達障害の子どもと関わった方はわかるかもしれませんが、彼らには常識が通じない(理解できているけど出来ないという場合もあり、それが一層彼らの苦痛をあおります)。通常であれば入る指導が入らない。そんなことが多いです。


 そんな中、支援者側が自己防衛として「自分や学校のせいではない」と思ってしまうと、負のスパイラルのはじまりです。その子が困った子に見え始める。そうしたくなる。


 この気持ち自体は特別なことではありません。なんせフロイト女史直伝の防衛機制というやつですから。気持ちが追い詰められれば追い詰められるほど、「自分のせいではない」と思わなきゃ先生や親だってやってられなくなる。…ただし、このままでは健全な関係が築けないのは誰の目にも明らかです。こうした感情の動きが特別なことではないからこそ、さまざまな仕組みでそのような思考に陥らない予防線をはったり、自身の感情抑制の練習をしていく必要があるのです。親であればペアレンツトレーニング、先生であれば療育の視点の獲得などが挙げられます。

 

「困った子は困っている子」という言葉は有名ですが、これには2つの意味があります。本人が困っているという意味と、周囲の大人が困っているという意味です。そして逆もまたしかり。大人が困っている時、相対する子どもも「どうしていいかわからなくて困っている」。

 

 支援者が立たねばならないのは無論「相手が困っているのだ」というマイノリティへの共感の目線です。そしてその困った状況を改善するためには「彼に変わってもらう」のではなく「うまくいく方法を共に探っていく」という目線に立たねば、じわりじわりと子ども達は追い詰められていくことになります。


 具体的に彼らが「何にこまっているのか」を探り、そこから支援を考えていくこと、そしてその際に様々な人をまきこみ協働していくこと。多忙な支援者が一人で抱えるのは逆効果です。複数の支援者が、それぞれの認識を共有することで2Dではなく3Dとして本人理解を共有し、同じ方向性で支援にあたっていく

 大切なのは病気を治すことではなく、本人の満足度、QOLを向上させることです。障害が特性として本人の中で共存できるような方法を探っていくことです。そうした環境を協働の中整えていければ、二次障害が発現したり、悪化することは避けられます。

 

 視力が悪い生徒に目を鍛えろといっても意味はない。メガネをかければいいだけです。発達障害は複雑ですが、そうした彼らにとってのメガネにあたる資源(物、人、アイテム、サービス)が世の中には溢れています。それを一緒に見つけていけたなら、きっと彼らは人を信じ、自分を信じ、二次障害を強めずに歩んでいけるでしょう。

 

3.そして再び立ちふさがる「そうはいっても現場はよう」


 さて、ここまできれいごとを並べてきましたが、私自身熱血教員として困難校に勤務している時に、発達障害についての講話等を聴いて感じたことがあります。「そうはいっても現場はよう」というやつです。


 たしかに上記の支援は通級制度があり、そこでは多数の教員で支えることができる小学校、中学校までは有効な面もあるかもしれません。

 ですが、高校の教育困難校においてはまったく違った様相を呈してきます。すなわち生徒の大多数が、何らかの問題を抱えているという状況です。

 多くの生徒が発達障害か愛着障害に該当するか、グレーゾーンに該当するという環境の中、ひとりひとりに適切な指導を、環境を、と言われても現実問題として無理なのです。

 

 結果、多くの教育困難校ではどこに目標設定をしていくか。「社会人として生きていくために最低限必要な能力、すなわち集団生活への順応」。ここに重きをおくしかなくなってくるわけです。

 規則を守ること。課題を提出すること。問題を起こさないこと。起こした場合はちゃんとけじめをつけること

 そしてその結果、そこに従うことができない生徒は叱責される場面も増え、最終的には退学という形に向かっていくことも多いです。

(ぬっぺふが勤務していた学校では入学時から卒業までで約1クラスは生徒がいなくなっていきました)


 そこで、こうした個別への支援作りが難しい環境においてはどのように発達障害や二次障害を抱えた生徒に対応していけばいいのか、それについてぬっぺふの意見をまとめておこうと思います。


 

①学習面で自己肯定感を見出すことに拘らない


 頑張っても出来ないものは出来ません。そうした生徒がいることを認め、最低限「まじめに取り組んでいれば赤点がつかない=努力した時間そのものをちゃんと評価する」ことを伝えることで、安心する子達は増えるかと思います。

 簡単な宿題でも、補習でもいいのです。出席点や提出点を大きくつけてあげていいのだと思います。

 それでも出さない生徒達には個別の対応が必要ですが、ただ単純に勉強が苦手で苦しんでいるという生徒については「まじめにやっていれば赤点(つまり退学の危機)にはつながらない」という感覚を持てるだけで土台の安定に繋がるはずです。


 私は、ほぼテストに出る問題が丸写しになっているテスト対策プリントを提示するのも構わないと思っています。なぜなら、それをやれば確実に点があがる、という経験を得られることは本人にとって+だと思うからです。


②行事や部活、本人が「がんばった!」と思える機会を活用する


 さて、学習面で自己肯定感を強められない場合でも学校には利用できる機会が山とあります。最たるものとしては行事や部活です。ただし、部活については生徒側の負担も教員側の負担も大きく、困難校において3年間やり遂げられる子はそう多くないことも経験上知っています。

 そのため、うまく利用したいのは行事です。困難校では英語検定を全員が受験するといった活動をとっていないことが多く(もしとっているならお金の無駄ですので即刻やめていただきたい)、結果学年費がかなりの額あまります。それらを資金源として、生徒に自由な活躍の場面を設定してあげるのです。

 

 基本となるのは2年生の修学旅行に向けて、小さなイベントを積み重ねていくという方法ですが、別にそれに縛られる必要もないでしょう。

 「あー、流しそうめんくいてえ」といった補習中の生徒のつぶやき。それを拾いあげて「金ならなんとかするから夏休みに流しそうめん大会企画しないか?」とプロジェクトに持ち上げてしまうのです。


 困難校はたしかにとても忙しい。しかし良い点もあります。それは教員の中に部活も担当せず、授業も適当で、のんびり仕事モードになっている先生も多数いるという点です。

 彼らの中には、かつては金八先生にあこがれていたような夢破れた先生も必ずいます。そうした人達をまきこみ、数人の興味をもった生徒でチームを結成してしまえばあら不思議。それだけで一つのイベントが実現し、そして調査書には「夏休みのレク企画の実行委員長として流しそうめん大会を企画運営、生徒達に思い出を提供した」などと書く内容が手に入る。


 当然、行事の花形、文化祭は絶対に見逃せません。文化祭は予算さえかければそれだけで良い物が作りやすくなります。溜まっているでしょう。関東大会に出た時ようの遠征費や、学年費、PTA会費等の雑費が。

 これらの投入先を文化祭にしてみるとします。大体の学校は一クラス2万円程度の予算の中で取組を考える。結果、お化け屋敷やジェットコースターといった大掛かりなものを作るには生徒の自腹(あるいは教員の自腹)前提となってしまう。

 ではこの予算が一クラス10万円に増えたらどうでしょう。出来ることは格段に増えていきます。


 こうした話をきいて、「そんなものは夢物語だ」と考えている人はいるかもしれません。ですが、ぬっぺふが過去勤務していた学校は、偏差値30代にも関わらず文化祭に関してはそんじょそこらの進学校でも太刀打ちできないレベルの内容を誇っていました。

 はじまりは2,3クラスが本気になったことでした。教員と生徒が本気で相談をし、勝ちに行く企画を共に考え、実行していく。最初は小グループから始まる文化祭準備ですが、人間「面白そうな企画」「成功しそうな企画」には自分も参加したくなるものです。結果、その2,3クラスは他クラスを圧倒する内容の企画を実現し、「青春感」を得るわけです。


③「青春感」を大切にする

 

 この「青春感」、一度覚えるともう一度味わいたくなるもの。最初は2,3クラスだった生徒達は翌年には多数のクラスに分化します。そしてそれぞれが種子となって、昨年の成功体験をもとに新しい花を咲かそうとする

 

 困難校の生徒は「青春感」に飢えている。私はそう感じます。だからこそ学校の中でそれが手に入らなければ、外にそれを見出そうとします。街に繰り出し、酒をのみ、恋愛に依存し。…ですが、学校の中で「青春感」を得られる場所があるのであれば、彼らはそれを最初こそ「ばからし」と遠巻きに眺めていても、興味をもって近付いてくるものです。

 

 ぬっぺふのいた学校では、そうした「青春感」に飢えた生徒達が行事によってその渇きを満たし、また自己肯定感を得、集団活動に必要な協調性を身に付けていくというスタイルで彼らの就職を支えていました。大体学年の3分の1が就職でしたが、就職率はほぼ100%。なぜなら、青春物語が調査書に書けるからです。


「1年次は勉強への苦手意識が強く、周囲との関係も悪くなり学校を長期欠席したこともあった。だが、2年次にそれではいけないと思うようになり、一念発起して夏休みレクの委員長に就任。多くの生徒に夏らしい思い出を、との観点から流しそうめん大会を企画・運営し、大きな成功をおさめた。その後は苦手な勉強にもとりくみつつ各行事において尽力。出席状況も安定している」


 といった、ダメだった若者がきっかけを経て大きく成長する、というストーリーが生まれることにより、就職率は格段にあがります。そして、行事等を通じて教員は生徒の横にいてくれているという感覚が彼らに伝わってくると、不思議なことに進路指導の入りも良くなっていくのです。


④各生徒の特性を把握し、適材適所の活躍を提供する


 さて、上記したような展開を作っていくためには、彼らに苦手なものをおしつけてもうまくいきません。

 ここで思い出してほしいのがASD,ADHD、LDの特性です。


 まずASDは特定の分野におけるこだわりが強く、そうした特性を発揮できる面ではまさに博士のような活躍をします。プロジェクトのリーダーには向かずとも、与えられた細かい作業を徹底的にこなすことでは右にでるものはいない、職人気質です。


 次にADHD。彼らは衝動性がつよく飽きっぽい反面、その思考から人にはないアイディアが生まれてきたりします。そして常人であれば「でも、どうしよう・・・本当にうまくいくかな」と躊躇する場面で「いけるよ。面白そう、やろうよ」とアクセルをかけるのは大得意です。暴走しないようサブリーダーをつけたり、教員と二人三脚で動くよう心がければ、彼らは旗振り役として最適な能力を発揮します。人前で何かをすることが得意な面もあるため、舞台などでも大きな活躍を期待できるでしょう。

※反抗性挑戦性障害に近い状態にいた生徒が、舞台での成功やリーダーとしての経験から自信をとりもどし、教員との衝突はまだ起きるものの生徒との間では頼れる兄貴分に変わっていったのはぬっぺふの中の美しい思い出の一つです。


 最後にLDです。彼らは基本的には問題となる能力以外はしっかりしています。足りない能力を他の面で補っているからかもしれません。そして、彼らは「頑張っているのに出来ない・・・なぜ?」を抱えています。

 そんな中、行事の準備は算数や文字の読み書きとは関係なく活躍できる活動のるつぼです。「頑張ったものが頑張った分だけいいものになっていく」。その経験を積むことが彼らの人生観を大きく変えてくれます

 ASDやADHDの併発していない学習障害者の場合は、基本的にはまじめでいい子でいることで自分を守ろうとしているタイプも多いため、堅実に作業を進めてくれる「信頼できる人材」として活躍してくれることが多いでしょう。


 こうしたそれぞれの良さを「学習」という学校の一側面のみで活かしていくのはなかなかに難しい。でも、学校全体で何ができるかを考えていけば、その活躍の場は広がっていくものです。

 


 

4.学校の「ふつう」に我々もとらわれない


 以上のように、実は学校は「学習」に固執しなければ彼らの自己肯定感を伸ばせる活動を自由に設定できる場所でもあるのです。そしてその特徴を最大限に生かすためには、我々教員が知らず知らずのうちに作り上げている、学校教育の「ふつう」に捉われないことが必要になってきます。


 たしかに高等学校において教科は学校生活の主軸です。そこにおいて生徒の能力を高めていくために何ができるか。それを考えるのが教師のメインの仕事と思います。

 ですが、自己肯定感などの精神的土台が崩れてしまっている生徒は、無意識のうちに「アパシー(無力感)」に陥ってしまっており、そのために学習に前向きに取り組めないということも多いです。

 

 であれば。一見遠回りのように見えますが、まずは生徒の精神的土台を固めてあげることが教科や授業の安定にも繋がります

 そしてそのために使える道具が行事や部活であれば。それも活用していくのが本来のあり方ではないでしょうか。


 無論、教科も行事も部活動もすべて一人の教員で抱え込んでしまえば破たんします。ぬっぺふの学校は先述したようにすばらしい取組を実現していましたが、大きな問題点はそれらを「教員の滅私奉公」により実現していたという問題点に目を伏せてしまったことです。

 

 そうではなく、思い切ったスクラップ&ビルドが必要なのです。たとえば、単位制高校にありがちな沢山の選択科目達。あれは進学校であればそれなりに意義があるかもしれませんが、困難校に適しているかといえば答えはNOです。なにせ「自分の将来の可能性が広がると思って単位制にしました」と言って入学してくる生徒に対し、1年生の5、6月で「文系か理系かの選択を強いる」のですから。そしてその結果3年生での科目選択時に本当に選択したい科目が選択できなくなってくる。

 こうした一見前向きに見えて無駄な取り組みが学校には溢れているはずです。それらを「本当に生徒のためになっているのか?」という目線で検討し、教員の業務量をへらしていく。


 その上で、部活や行事の活用の意義をなるべく多くの教員で理解し、勤務時間内の関わりで構わないので前向きにかかわっていけるよう環境を作っていく。


 困難校は部活加入率が低いです。だからこそ、放課後、勤務時間内でも行事に取り組む時間を持てる生徒は沢山います。

 また、困難校の数学の先生などはかなり余裕を持て余している方も多いです。こうした人達を見つけ、うまく巻き込んでいくことができると、一人一人の教員の負担は大きく増やすことなく行事の活用は可能になってきます。


 平田オリザという演劇界・教育界の大御所がいます。彼の主張は「演劇は若者が今後の社会(下り坂をおりていくような日本)において生きていく力を養うことができる」というものです。彼の著作は現代の教育について重要な示唆を与えてくれるので、もしよければ一読頂ければと思います(それなりに本人の取組自慢が入っているのはご愛敬)。


 

 さて、少し頭がつかれてきたのでここで今日は了とします。


 今回は発達障害を抱えている生徒にどう接するかという話から、学校教育のあり方に話題がシフトしてしまいもうしわけありません。


 ただ、昨今問題となる部活動が完全勤務外の活動であるのと違い、学校行事は「特別活動」としてちゃんと学校の職務内にはいってくる由緒ただしい活動であり、本来の総合的探究の時間です

 これらの行事まで部活同様に「学校において不要なもの」と切り捨てられてしまうのは違和感があったため、こうした内容になってしまいました。


 国立高校のように、行事を売りにした学校、もっと出てきてもいいと思うのですが・・・

きっと発達障害傾向の子が輝き、それこそAO入試や一般就職に強い学校になっていくと思います。


さて、これ以上は妄想の垂れ流しですね。今回は終わりにします。

では、またいずれ!

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