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発達障害やグレーゾーンの生きづらさについて



 どうも。もと熱血教員で不祥事教員県社会福祉士でピアサポーターのぬっぺふです。


 ネット全盛の今、発達障害の辛さについては様々な人がブログや YouTube などで語る時代になりました。以前より多くの方が発達障害についての理解を深めてくれており、若輩者のぬっぺふがわざわざこのテーマを取り上げる必要もないのかな?と思う気持ちも正直あります。

 ですが、一方で誰でも語れるようになり、皆が知るようになったからこその問題点もあるのではないかとも思うのです。

 というわけで今回はぬっぺふの思う「発達障害また発達障害のグレーゾーンの実はここが辛いんじゃないか」というところを整理してみたいと思います。


ではいってみましょう!



 

1.普通を演じる辛さ


 発達障害傾向のある方でまず生きづらさの原因になるのが、自分らしさを押し殺し普通を演じなくてはいけないと思い込んでしまった場合です。


 実は発達障害に関しては障害の程度が強い人の方が人生の幸福度は高いと言われてます。 

 私も不祥事を起こすまではバリバリ教員として働いていたわけですが、正直中には普通にコミュニケーションをとることが難しいというレベルの先生もいました。

 ですがそうした方は自分が周囲に合わせるのではなく周囲が自分に合わせてくれるので、結果的に得意分野のみをやってれば良いという状況になり案外楽しく教員生活を送っていたりします。


※余談ですが知人の務める職場では勤務時間にアイドルの動画をずっと眺めているおじさん教員がおり、授業中は黒板と会話していると生徒に評されていますが問題なく定年まで勤めあげています…。こんな方でも給料は昨年の私の4ば…ごほんごほn


 無論自分の個性を活かして生きれる場所にいるのであればそれが一番です。ですが、 みんながみんなそうした職業に就くことができるとは限りません。


 特に高度経済成長の後日本の産業の中心はサービス業となり、社会人に求められる最も重要なスキルは真面目さでも知識量でも専門性でもなく社交性になってしまったという流れがあります。


 これは発達障害傾向のある方にとって悩ましい流れなのです。

 一般的に ASD (自閉症スぺクトラム)と呼ばれる方たちは他者の空気を読むという行為がとても苦手です。また ADHD (注意欠陥多動症候群)と呼ばれる方たちは、頭の中で考えたことをすぐ実行したり口に出したりしてしまいこれまた社交性という部分では悩みを抱えがちです。彼らは職人気質の仕事には強みも持っており、高度経済成長を背景で支えていた人材は間違いなく彼らだったのですが・・・


 そんな社交性第一の現代社会においては、発達障害傾向の低い人ですら思春期のどこかで

『自分を他の人たちとどうも違う気がする』という悩みにぶつかり、その結果他者の目線を必要以上に気にし周囲に過剰に合わせるいわゆる過剰適応と呼ばれる状況になりがちです。


 ※ 中には「私ってこういう人間だから」と前置きをすることによって自分を守っているタイプもいますが、そうした人たちも全く傷つかないというわけではないのです。 なぜあんなことを言ってしまったのだろう。またやってしまった…そうした思いがぐるぐると渦巻いているのが実際のところです。


 こうした悩みとぶつかりながら、多くの発達障害当事者もしくはグレーゾーンの方達は成長するにしたがって普通を演じる方法を身につけていきます。ですが当然その姿は自分本来の持ち味ではないため日々の中で小さなストレスを継続的に抱えていくことになるのです。

 

 そしてこうした普通を演じる辛さと表裏一体になってくるもうひとつの辛さがあります。自己肯定感の低さです。


 

2.自己肯定感の低さ


 発達障害というものはつまるところ能力の凸凹です。 この凸を強みと捉え前向きに生きている限りはどんなに傾向があっても発達障害とは認定しません

 そのため、能力が高かったり自己肯定感が強い方の中には、自分がカリスマとなり、周囲を自分に合わせていくことで大成功を収めていく方もいます。


 ですが発達障害当事者全てがそのような強い自己肯定感を持てるかというと決してそんなこともありません。

 

 何かと幼少期から怒られることも多く、思春期には周囲から何か変わっているという目線で捉えられ、仕事を開始してからは普通の人が平気で行なっている作業がなぜか自分にはうまくできないという感覚を突きつけられ。

 そんな中次第に自分への自信を失っていく方も多いのです。


 結果、「私は頑張っていますよ!」「私は普通の人間ですよ!」と自分の苦手を一生懸命隠したり周囲に頑張っているアピールをせざるを得ないという状況になってしまったりするのですが、この努力が多少意味うまくできてしまう人ほど悲劇につながりやすい。 なぜなら周囲から能力の凸凹があることを気づいてもらえないからです。


 そしてそうした中、環境の変化(仕事の多忙さ・子どもが生まれる、職場の異動など)であったり肉体的もしくは精神的なコンディション低下が重なることで次の悲劇が生まれてきます。

 

3.自動車に例えて見る




 突然ですが、貧困の捉え方の1つに車輪モデルという考え方があります。 人生がうまく好転していくためには様々な要因が必要なのですがそれらが欠けてでこぼこの状態になっていると車輪つまり人生は回っていかなくなってしまうという考え方です。

 

 もともとこの考え方を提示したリスターさんは、車輪の軸となるのは物質的な問題、タイヤのデコボコ部分は本人の自身であったり、社会からの目線であったりと社会的な問題があるとしており、 この考え方は「貧困ってのは要は飯がくえてるかどうかの問題だろ?」に対し、「そうじゃねえよ!社会的な問題があると人生は結局うまくまわんねえんだよ!」という理念を叩きつけたものとなっています。

 



 私は、この車輪モデルの考え方…つまり軸は問題がなくても必要なものに凸凹があればうまく回っていかないという部分は発達障害傾向の方やグレーゾーンの辛さの説明にも応用できるように感じます。そこで今回は「タイヤの部分の凸凹(本来であれば社会的な要因が入る部分)を発達障害の人の能力の凸凹に置き換えて」1つ例え話をしてみたいと思います


 リスターさんの例でもわかるように凸凹のタイヤでは車はまともに走ることはできません。 そこで発達障害を含む能力の凸凹がある方たちは凸凹のボコの部分に物を詰めたり薄い皮膜を貼ったりそんなこんなでなんとか見た目は普通のタイヤを取り繕います


 きれいに舗装された道路を制限速度で走っているぶんにはこのタイヤでも十分走ることができます。 当然中にいるドライバーは普通の車を運転している以上の衝撃であったり運転のしにくさは感じると思いますが少なくとも周りから見ておかしな車には見えません。


 ですが社会人になり仕事の内容が複雑になればなるほどこうした対応ができなくなってきます。 舗装された道を周りと同じように進んでいけばよかった学生時代に比べ、仕事というのは凸凹の舗装されていない山道を時には急勾配時にはジグザグ走行で進んで行かなくてはならないようなものだと思ってください。

 すると、舗装路では耐えられたタイヤの皮膜が破裂しまともな運転ができなくなってしまうのです。


 …当然車はガタガタ揺れ動きハンドルはうまく切れず運転を続けることは難しくなっていきます。 さてここから先の対応は実はある条件によって分かれてきます。

 …そのある条件とはなんでしょうか?

 

 

 それは自分のタイヤが凸凹であり薄い皮膜を貼っている状態なのだとドライバーがつまり本人の意識が知っているかどうかということになってきます。

 心理学の用語で言うのであれば自己覚知ができているかどうかということです。


 

4.自己覚知の重要性


 自己覚知とは簡単に言えば「自分がどのような人間であるのかどのような考え方をするのか何が得意で何が出来ないのか」そうしたことをしっかりと把握しているということになります。

 以前別記事でジョハリの窓についてふれましたが、あの窓が開放されている状態といってもいいでしょう。


 先ほどの車の例に戻りましょう。 自己覚知のできていないドライバーとはつまり自分の車この場合はタイヤに問題があることを気づけていないドライバーということになります。


 彼らは車のトラブルがタイヤによって引き起こされたものであると気づくことができません。 突然の異変にドライバーはパニックを起こしなんとか運転を続けるも最終的には何かにぶつかって車を破損してしまいます。





 当然、本来すべきことはまず車を止めること、そして次にタイヤの修理を行うことです。現実で考えるならば一度冷静になり、心を落ち着けることになります。 そしてその次に考えるべきは自分のタイヤが耐えられるルートや方法を選択していくこと、そのためにどうすべきかを考えることです。こちらは現実でいうのであれば「自分の苦手は人に手伝ってもらい、自分の得意をこなしていく」ことであったり、仕事の処理スピードを落とすことで自身への負荷を減らすことなどが挙げられます


 「 運転がうまくできなくなった理由がタイヤにある」と気付けている方はそうした正しい対応を取ることができます


 ですがタイヤに問題があると気づいていないドライバーはそうした行動が取れません。結果事故の原因を自分の運転技術が低いからだと考えるようになるのです。

 (もしくは徹底的に「対向車がわるかった」など自分以外のせいにしてしまうかです)


 当然、問題の原因がそのままになっているので、どんなに気を付けて運転をしようが周囲に責任をおしつけようが、同じような凸凹道やジグザグの道に出くわすとやっぱり同じような事故が起きてしまいます


 こうなってくるとドライバーのプライドはズタボロです。

 それでも仕事は山のように降ってきます。 事故を恐れて運転しないというわけにもいきません。

 結果崩れそうなプライドと慢性的に襲いかかってくる不安に対処するためドライバーはアルコールに逃げたり女遊びにハマったりパチンコに入り浸ったりという方法で日々を乗り切ることになってきます。

 これが発達障害や軽度知的障害を抱えた方が依存症を併発しやすい理由です。


 なお、周囲のせいにして乗り越えてきた方の場合は、ふとしたことでもクラクションをならして人を追い払いながら事故を避けたりします。あなたの職場に必要以上にがなりたてる方はいませんか?それはもしかしたら本人のプライドを守るための対処法なのかもしれません。


仕事がうまくいかない

自分の努力が足りていないからだと自分を攻撃 or 周りのせいだと周囲を攻撃

また同じ失敗を繰り返す

心の中に溜まっていくコンプレックスと不安

解消するために行為であったり物質に依存

ますます仕事がうまくいかない


 この負のスパイラルに陥るとなかなか逃れることはできません。

 ですが、悩む中彼らはこうしたスパイラルの中でひとつの光明を見出します。 「もしかして自分は発達障害を抱えているのではないだろうか?」


 ついに自己覚知の入り口にたどり着くのです。 ところが折角のこの気付き、妨げてしまう動きが起きやすいのです…。


 

5.他者への相談のもつ落とし穴


 「実は俺発達障害を持っているかもしれない…」

 そう暗い表情で同僚があなたに話しかけてきたとします。 その時あなたはどのように対応することができますか?


 あなたが発達障害の傾向を持つ当事者で、今まで辛い経験をしてきたのであれば、彼の悩みに親身に寄り添いメンタルクリニックの受診や検査を受けることを進めることができるかもしれません。

 ですが世の多くの方はそうした対応はしてくれないのです。


 こうした相談を受けた時多くの方はこういうのです。

「 わかるよ。 俺も若い頃はつらかったよ。

でも頑張っているうちに慣れてきてしまえば通り過ぎてしまえばそんな頃もあったなってなるよ。俺が見る限りお前は発達障害なんかじゃないよ。 大丈夫安心して頑張れよ!」


 この返答に悪意はありません。 またこうした返答を受けたということは、ある意味ではそれまでの自分の普通に見せる作戦がうまくいっていたと言う証拠でもあるのかもしれません。

  ただしこの返答は暖かいようでとても冷たい言葉として胸に突き刺さることになります。 なぜならこの言葉はつまるところ努力が足りないという言葉として変換されてしまうからです。


 こうした相談をするまでの間に、本人の中では幾多の自問自答が繰り返されているはずなのです。 そして自分で出来る対応策に関して試行錯誤をした上でのこの相談なのです。


「自分で色々考え試してきたけれどどうもこの生きづらさの原因がわからない。 発達障害というものであれば自分がやってきた努力が足りなかったのではなく自己覚知の部分に問題があったのだそう思い、別の対応をしていけるのだが…」


 先ほどの返答はこうした悩みについて

「違うよ。発達障害じゃないよ。乗り越えられるよ、努力で」

 と答えるようなものです。 そしてこれを受けて自己覚知の入り口に立っていたはずの本人は再度振り出しへ戻ります。


「やはり自分の努力不足なのか…でもこれ以上どう努力すればいいんだろう?」


 …結果ぐらぐらと揺れる自分の土台にひたすら誤った対処を積み上げ続けることになります。


 その積み上げが社会から大きく逸脱したものとなってくれば不祥事へと向かいます。

 また不祥事にならなかったとしても土台を無視して積み上げた積み木は何かのきっかけで一気に崩れ落ちます


 今までの長い人生経験の中で積み上げてきた自分というもの、自信の拠り所、対処法…それら全てが一気に崩れ落ちるのです。また一から組み上げる気になりますか?


 これが専門用語で言うのであればバーンアウト、うつ病、時には統合失調症という症状に繋がっていきます。

 

6.最後に「わかった気になる」という怖さ


 発達障害は、たしかに個性でもあります。知的に重度な障害を負っている方に比べ、出来ることも多いですし、身体的にできないことがあるわけでもない。本人が前向きに生きている限り、障害と呼ぶものではありません。

 ですが、上記してきたような「生き辛さ」を抱える方は実際には沢山います。その「個性であること」と「生き辛さの原因となること」の間で揺れ動くことが、発達障害を捉える際の難しさです。


 私が思うに、発達障害の難しさは『実際はとても煩雑で同じADHDという診断名でもまったく正反対な苦しみを持つ多様性がある言葉』であるにも関わらず、周囲も当事者も「わかったような気になってしまう」ことに大きな問題点があると思うのです。


 わからないことであれば相談された人は安易な返答ができません。「俺、すい臓がんかもしれない」と言われたら専門的な医師でもないかぎり「大丈夫だよ」とはいわないでしょう。

 ですが、発達障害についてはある程度人口に膾炙してきたからこそ、ある程度のイメージを皆がもつことができています。それゆえに「俺の知っている発達障害はもっと症状がひどい人のことだぞ」と、安易に「大丈夫だよ」と言ってしまう

 下手すると、発達障害当事者の方ですら、自分の体験のみを判断基準にわかった気になり、「それはこうすればいいんだよ」と本人の気持ちに寄り添わないアドバイスをしてしまうことすらあるのです

 実際は、その人の特性によって同じ診断結果であったとしても困りごとは全く違ったりします。それにも関わらず、「ADHDの人はこうすればうまくいくう!」と告げられてしまうと、自己覚知のまだ出来きっていない方は非常に混乱してしまう。


 そのため、当サイトでもアドバイスについては「あくまでぬっぺふの体験として」であったり、「こういう傾向がある」「こういう方法もあるかもしれない」といった煮え切らない言葉になっています。それは自信がないというよりも、一言で断言できるほど発達障害は甘い概念ではないと認識しているから、また不用意な「こうしたらいい」が傷ついている人にとってナイフに変わる可能性を認識しているからなのです。


 それでも何かアドバイスがほしいよという方は、今回の記事を読んで「自分にあてはまる!」と感じた部分をもとにまずは「自分を理解していくこと」が重要です。そして自分を理解するためには精神的に落ち着ける状態を作ること、客観的な目線でアドバイスをくれる仲間を増やすことが前提となります

 前者は正直、「わかっちゃいるけどそんな時間とれねえよう」という部分はあると思います。ですが、後者は案外探せば見つかるものです。

 最近は発達障害に対応するメンタルクリニックも増えましたし、私のようなピアサポーターも増えてきています。NPO法人等が「当事者会」を開いているケースも増えてきているようです。市や県でも情報提供をしてくれる部門があります。


 そうした機関をまず利用してみること。これは思い切って電話さえしてみれば動きだします。発達障害の方はいざというときの思い切りが良い方も多いはず。自分一人で行き詰ってしまっているのであれば、今いる環境を外から俯瞰するためにも外の人と繋がってみるのはやはり大切なのかなと感じます


 一方で一つ注意もしておきます。どこの機関を利用するにしても、最初の相談から通じ合った感覚を持つことができるかというと難しいです。なぜなら、先述したように「発達障害は診断名ではなくあくまで症状、本人の困りごとを捉えていかないと理解が難しい」ものだから


 そのため、一度繋がってみたけれどいまいちだなと仲間集めそのものをあきらめてしまわないようにしてほしいのです。できれば何回か継続してやりとりを。それでも合わないと思うのであればまた別の機関も視野にいれてみましょう。

 相談機関はたしかに玉石混合ですが、貴方を受け止めてくれる場所もかならずあると思います。


 

 

…というわけで、今回はこのあたりで〆としておきます。無論、一人でできる発達障害の生き辛さへの対応策もあるのですが、どうしても人それぞれになってしまう面もあり・・・またどこかでまとめさせてくださいませ。

 ではまたいずれ。


 


 
























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