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石井光太氏の著作『本当の貧困の話をしよう』を読んで教員不祥事を考える





 どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士でピアサポーターのぬっぺふです。


 わたくし、最終的には人としての道を誤り不祥事教員として教員人生に幕を下ろしたとはいえ、もともとは様々な人権問題を扱ってきた熱血教員でもありました。

(じゃあそんな人間がなんで人権侵害をしてしまったのよという話はまた別記事で取り扱いたいと思います・・・)


 そんなこんなでしばらく距離を置いていた(そんなことを考える資格もないと感じていたこともあり)社会問題についての本でしたが、タイトルにひかれパラパラとめくった段階で「これはもしかしたら教員の不祥事にも関係する内容が含まれているぞ」と思い、一気に読破してしまった次第です。


 アマゾンでも高評価の名著ですので、「貧困の本質」についての書評はどなたかがしてくれていると思います。ですので、今回ぬっぺふとしては「なぜ経済的にも豊かで社会的にも承認されているはずの教員が不祥事という犯罪行為を行ってしまうのか?」という観点から印象に残った内容を引用しながらまとめてみたいと思います!


 なお、熱心な読者の方や著者の石井先生としては「そんな不祥事教員の行動にこじつけるな!」という思いももしかしたらあるかもしれません…。ですので、あくまで一読者としてこうした受け取り方もあるのかなという1つの意見としてお目通し頂ければありがたいです。


 では、早速いってみましょう!


 

1.貧困の問題点


 まず、本著を開くと著者は「貧困とは何か?」という話を丁寧に解説してくれており、日本は他国と比べてたしかに福祉制度も整っているし治安等もよいが、「相対的貧困」については子どもの7分の1が置かれてしまっている、ということを述べています。


 相対的貧困については私が教員をやっている頃から話題になっており、簡単に言えば「平均収入の半分以下で生活をしている世帯」「そのせいで周囲の当たり前についていくことができない(格差を感じる)辛さをもっている」というのが相対的貧困となります。

 ごはんは食べられる。携帯も持てる。けれど、大学進学はお金の関係であきらめざるを得ない…、お金のかかる部活動はできない、友人とカラオケに行けない、etc。


 彼らはたしかにスラムの住人というわけではない。学校も行けているし、はためには他の人達と変わらない。そうした状況を説明した上で著者は貧困の大きな問題点として単純な生活苦などよりも以下の点を主張します。


貧困者は常に富める人と競争を強いられたり、格差を見せつけられたりすることで自己否定感を抱きがち…中略…・自己否定感は「心のガン」なんだ。その子の中に一度できてしまうと、体の中でどんどん大きくなったり、他のところにも転移していったりして健康をむしばんでいく。勉強や仕事への意欲が衰え、ふさぎ込んで他人と接することを避け、何事にも投げやりになってしまう。

 

 この言葉は、私としてもとても共感するものでした。


 私の初任校は当時半数近い生徒が片親の家庭で、経済的事情から高校を卒業したら就職をせざるを得ないという生徒が多数存在しました。

 自己否定感とまではいかなくとも、「自分に自信がもてない」という生徒が多数存在し、彼らに学校生活を通じてどう「達成感や自信」をつける機会を提供していくか、どのように「仲間」の輪を広げていくかばかり考えながら右往左往した初任者時代を思い出します。


 ですが、今上記の文を読んでもう一つ浮かんだものがありました。

 「これって、不祥事教員にもあてはまる図式じゃないか?」と。



 


2.教員の自己否定感


 以前ブログの別記事で、私は「不祥事教員は大別すると2種いるように感じる」と述べた上で、「1つはわかっちゃいるけどやめられない系」「もう1つは俺は間違っていない系」とまとめました。


 上記の「自己否定感」は、特に前者の根底に横たわっている問題のように感じるのです。


 著者はスラムの住人が明るい理由として、そこでは皆が同じような状況におり自分だけが孤立していると感じないからと説明しています。そして日本における貧困はそうしたスラムの住人よりも孤立感を強め、結果自己否定感を強める傾向があるのではないかとの旨を主張します。


 教員はどうでしょうか。世間的には十二分な賃金、社会的地位を与えられているものの、一方で職務の多忙さから職場以外の人間関係を断たれたり、コミュニケーション力が低い(発達の凸凹があったりする教員には多いです)ことなどから本来の得意分野、教科では力を持っているにも関わらず周囲から軽んじられたりということは多々おきるものです。


 著者は裕福な家庭においてもこうした自己否定感は育つとも述べています。であれば、世間的には裕福といわれる社会的地位、賃金を得ながらも周囲と自分を比較し自己否定感を強めていくことは往々にしてあるのではないかとも思うのです。


 そう思いながら読み進めていた所、出てきた「三鷹ストーカー殺人」の犯人、池永氏の解説を見て更なる衝撃をうけました


 著者は池永氏がフィリピン人の水商売の母親とのハーフであり、幼少期から母の恋人に虐待されたり、お腹がすいたらゴミ箱から賞味期限切れの弁当などを漁って食べていたことを説明し、彼が高校卒業後にSNSで自分は一流大学に通っていて英語も堪能だなどとウソをついて被害者Aさんと交際を始めたことに触れます。

交際がつづくにつれて、池永はAさんと自分が不釣り合いだと感じるようになった。Aさんは都内の裕福な家庭に暮らす女の子で、タレントの卵としてメディアでも活躍していた。自己否定感の強かった池永にとって、彼女の存在は太陽のようにいまぶしすぎたのだろう。彼はだんだんとウソを押し通して付き合い続ける自信がなくなり、自分から別れ話を持ちかける。結局2人は別れることになったが、池永はAさんに未練を抱いて、ストーキングをはじめた。付き合う自信はないのに、恋心だけがどんどんふくらんでいったのだろう。そしてAさんに新しい恋人ができたと知るや猛烈な嫉妬にかられる。
…中略…
池永は自分を偽って付き合いはじめたが、自己否定感ゆえにきちんとした交際をすることができず、一方的に妬みをふくらませて身勝手な考えで殺人事件を起こしてしまったんだ。

 

 この文章を読んで感じたのは、「ああ、不祥事を起こしたときの自分に似ている」という印象でした。無論、私は彼のような壮絶な人生を歩んできたわけではありません。加害者が被害者面をしようとするなと言われるのももっともだと思っています。でも一方で。


 根本に「自己否定感」を抱えた状態で「自分を教員として大きく偽って他者と交流を続けること」、そして理屈ではうまくいかないことはわかっているにも関わらず「思い通りにならない相手に対して妬みを持ってしまい、行動化してしまうこと」については不祥事教員のあり方としてとても似ている心理状況だと思うのです。


 体罰はその最たるものですし、盗撮や痴漢といった行動も「欲求を抑えることができなかった」の背景には本人のコンプレックス(いい人でいたい、でも他者を支配したいという欲求等)が隠れていることは自身も参加している「性犯罪加害者の再発防止グループワーク」の参加者からも聞こえてくることです。

 

 また、薬物の乱用について、

(ストリートチルドレンが薬物を使用することについて)逆説的な答えだけど、生きるためなんだ。彼らは絶望に満ちた人生でシンナーの幻覚くらいしか楽しみを見つけられない。シンナーをやっている間だけはつらい現実を忘れられるし、心から笑うことができる

 との記述がありますが、これこそまさに「わかっちゃいるけどやめられない」タイプの根本です。


 依存するのは「生きるため」。過重なストレスや、自己否定感から目を背けるために結局物質や行為に依存していくことでバランスをとるしかない。


 池永氏の件をみてもわかるように、自分を無理して大きくみせるのはとても疲れることです。それでも教員はそれもやらなくてはならない…真面目で融通が利かない(いわゆる言外のコミュニケーションが苦手なタイプ)ほどそうした脅迫観念にかられよりストレスや仕事を抱え込んでいきます


 私の場合は、性的なものへの依存が精神の安定薬でした。土日に部活で疲れ果て、やっとこさ家に帰ってからも翌日の部活動で何を話せばいいのか、先週起きた問題行動についてクラスではどう話し合うべきか、授業準備は明日間に合うのか、明後日の会議資料はどうしよう、文化祭の買い出しを手伝わなくては、など学校から気持ちを切り替えることができず悶々とするのです。そうした時に唯一何も考えず、仕事のことを忘れられるのがポルノを見てマスターベーションに浸っている時でした。

(まあ、ことがすめばいわゆる賢者タイムがやってきて虚無感と不安感を抱えたまま床につくわけですが・・・)

 


 

3.生活を変えられない不祥事教員予備軍


 そうした生活は客観的にみればキャパシティをオーバーしています。私も周囲から「仕事を抱えすぎだ」「そこまでする必要はないのではないか」と冷静な意見も頂いていました。中には「仕事を変えるべきでは」という意見も。


 でも、当時の私は環境を変えること、生活を変えることに伴い周囲の人々から失望されるのではないか、今かろうじて手にしている自己肯定感のかけらすらも失うのではないかという気持ちから結局「やるしかないんだよ」と生活を変えることはできませんでした。それどころかむしろより仕事に入り込んでいくようになりました。


 これについても似たような状況が本著の中に登場してきます

(ストリートチルドレンや少女売春について述べた上で)支援団体が彼らを発見して、「あなたを助けてあげる」と言ったとしても、断られることも少なくない。インドのある支援団体が警察とともに売春宿に乗り込み、売春婦たちを連れ出したことがあった。支援団体は用意したアパートに彼女達を住まわせ、衣食住を提供して、将来仕事ができるようにと勉強や職業訓練の機会を与えた。だが、彼女達の9割はアパートから逃げ去り、売春宿に戻った
…中略…
「アパートにいたって退屈なんだもん。店で働いていた方がなじみのお客さんとも会えるし、私を必要としてくれる人がいるから、そっちの方がマシだわ」
…中略…
今になって新しい社会で差別を受けながらまったく別の挑戦を一からするより、自分のことを知っている人たちに囲まれてこれまで通りに生きていく方が安心なので、売春宿に戻ってしまったんだ。
…中略…
「思考停止」というものの恐ろしさだ。
…中略…
こうしたことを防ぐには、何が必要なんだろう。イマジネーションだ。思考停止するのではなく、自分の未来について考えていく力をもつことが大切なんだ

 

 ・・・私が教員時代、よく言われた言葉に以下のようなものがあります。


「今は大変だけど、今積み上げたものが後につながる」

「みんな通ってきた道だ」

「無茶をしろ」


 私はこうした言葉について間違っているとは思いません。実際に積み上げたものが自身の実となり成功につながったこともありましたし、無茶をしなければ自分の枠が広がることもないと考えています。


 ですが、当時の私に圧倒的に足りなかったことがありました。それが、まさに上記の「自分の未来について考えていく」ということだったように思います。


 私は「ともかく耐えるんだ。耐えて頑張ればいつか楽になるんだ。いつか認めてもらえるんだ」と、未来のことを考えず今を乗り切ることしか考えていませんでした。結果、自分の枠を広げる上で本当に大切な「多くの人達との対話、出会い」を切り捨ててきてしまいました。今思えば、当時の私は「このままではまずい気がする」と感じながら、「今耐えれば…」と思考停止していたのだと思います。


 積み上げるにしても、自分を遠目に先を含めて見通せなければ積んだブロックはアンバランスな形となり、最終的に崩落して自分も周囲も巻き添えにします。無茶についても同様です。無茶にも限度があります。人間は一時的に無茶はできても常に無茶をし続けることはできないのです。


 当時の私はそうしたことに気付かず、思考停止して強迫観念にかられるように仕事に向かっていたのでした。そしてその結果、同僚や生徒に対しての盗撮という性犯罪加害者となり果てました。


女の子は性犯罪にあうと、8割近い確率でPTSDになり、「自分は汚れてしまった」と考えるものなんだ。…中略…そんな時、女の子は「トラウマの再現性」といって同じような悲惨な体験を何度も繰り返す。売春をしたり、相手かまわずにセックスをしたりすることで、レイプは特にひどい体験じゃなかったんだって自分自身に思い込ませようとするんだ。…中略…でも、男性はそんなことを知るよしもない。「この女はセックスが好きなんだろ」と都合よく考えて、より身勝手なセックスをする。相手の女の子の本音を知ろうとさえしないから、罪悪感を抱いたり、思いやりをもったりすることがない。こうして女の子は買春の世界にとどまる限り、ずっと傷つきつづけることになるんだ。

 上記の文章を読むと、自身が行った行為の卑劣さについて再認識させられます。また、


思春期の子どもにとってたいせつなのは、尊敬できる大人に出会えるかどうかということだ。…中略…また、、「自分のことをわかってくれる!」と感じられる大人も、思春期の人生を大きく変える存在になる。…中略…大切なのは困っている時に外の世界へ一歩踏みだしてみることだ。

 こうした文章からは本来尊敬できる大人であるべき教員の信頼を落としてしまったことについての申し訳なさを感じます。だからこそ、不祥事の効果的な予防策を構築し、自分のような人間をこれ以上だしてはいけないのです。


 そして、上記の文章からはそのための重要な知見を得ることができます。私見ですが、思春期のこどもにとって大切なことは、大人にとっても大切なことなのです。大人だって常に悩み、価値観を揺さぶられ、自己肯定感と否定感のはざまで揺れているのですから。

 

 著者の言葉を借りるならば、教員に限らず、大人だって「尊敬できる大人に出会うこと」「自分のことをわかってくれる人に出会うこと」が人生を変えるのです。そしてそのためには外の世界(学校外の世界)へ踏み出す必要があります。

 有給を使い、時には病休を使ってでも、学校の中だけに閉じこもってしまってはいけないのだと思うのです。

 


 

4.最後に不祥事防止に活かせる知見として


 自分の拠り所が学校だけに依っていれば、せっかく積み上げたブロックは土台の学校部分が不安定になった瞬間崩れ去ってしまうでしょう。でも学校外にも拠り所を持っている人は学校が不安定になっても他の土台がブロックを支えてくれます


 本書を読んで、私は「やはり教員の不祥事防止には学校外との繋がりを継続していける人的・また精神的余裕こそが重要」と感じました。


 最後に、本書のテーマにそった形で述べさせて頂くのであれば、絶対的貧困、相対的貧困という単語に対してもう1つ「主観的貧困」というものもあるのではないかと思うのです。


「自分は他の人より恵まれていない、何もできない、皆は楽しそうにいきているのに俺はそう生きられない・・・」といったような。


 そうした訴えは客観的には貧困状況にないため甘えと一蹴されがちですが、一度そうした「甘え」という目線を取り払い、なぜそう感じてしまうのか?を学校全体がちゃんと考えていくこと、そしてどうしてもワンマンプレーになりがちな学校の中で相互扶助が自然と行われるようになっていくことが不祥事防止(いわゆる教員の非行防止)には重要なのだと思います。


 ・・・以上、おそらく石井氏も想定していなかった読み取り方になってしまったかと思うのですが、教員の不祥事防止という観点から読んだ感想文でした。

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