どうも。元熱血教員で不祥事教員、現社会福祉士でピアサポーターのぬっぺふです。
雨の多い日が続きますね。雨を見ると一つ思い出すエピソードがあります。今回はそこから「諦めと笑顔」について考察をしてみたいと思います。
今回は根拠となる心理学用語などがあるわけではなく、雑談に近い内容ですが案外「生き辛さ」の根本と関係する内容かもしれません。雨で暇なときにトイレの中ででも読んで頂ければ恐悦至極です。
では、いってみましょう。
1.土砂降りの中で笑う人々
以前こんなことがありました。一面ラベンダーの畑の中で開催されたイベントに、家族で遊びに行った時です。帰路につく頃に天候が急変、猛烈な嵐になってしまったのです。幸い風が強まってきた気配を察知し少し早く動きだしていたため、ぬっぺふ達は本降りとなる前に車に辿りつくことができました。
まあそれでも雨は降り始めており、傘も持ってきていなかったので服はそれなりに濡れてしまったのですが、車内で子どもの服を着替えさせたり(幸い幼かったので常に着替えは備えていたのです)しながら猛烈な雨を眺めた際、妙にすがすがしい変な気分になったのを覚えています。「こうなったらもう仕方ないよね」というような。
ところが、驚いたのはその後でした。
着替えなどが終わり、駐車場を出た車は今なお風雨に晒されながら帰路についている人々の群れとすれ違うわけなのですが、なんと「皆笑っている」のです。
そこには「なんで雨なんかふるんだ、ちっくしょう!」といったネガティブな感情は一切なく、みな雨になすがままうたれながらも爽やかな表情をしているのです。
自分達も雨にぬれどこかすがすがしい気分にはなりましたが、本気でびしょぬれになったわけではありませんでした。なので、どこかで「本降りになる前に車につけてよかった」という安心感であったり優越感であったりが原因なのかなと考えていました。ですが、彼らの表情を見ていて私は別の考えを持ったのです。
…それは、人は自分の力でどうしようもない現象に出会い、抵抗を諦めた時は案外笑っているものなのではないか?ということです。
2.諦め≒笑顔
今回の天候急変は天気予報でも予測できない、極地的なものでした。つまり対応のしようが無かった。それが皆わかったからこそ、そして周囲の人々と一緒に抵抗を諦めたからこそ笑顔になれたのではないか。諦めとはある意味では受け入れることであり、その結果笑顔になれるのではないか。
私はそんなことを考えだしました。
無論、人命が失われるような事態についてはいくら避けようが無かったと思おうとすぐに受け入れられるものではないでしょう。そうした「仕方ない」で済ませずあがき続けることが次の危機回避に繋がるといったものもあります。
…ですが、我々の日常において大抵のものは「取返しのつくもの」です。いわば「諦めてもいいもの」です。そうしたものに関しては、実は諦めること、受け入れることが笑顔への近道なのではないかとも感じたわけです。
思うに、日々の生活の中で感じる苛立ちや怒りの大半は「自分の思い通りにいかないこと」から生じているのではないでしょうか。自分の思う通りに動かない部下、顧客、子ども、急な交通渋滞、果てには自分自身。
そしてなぜ「自分の思い通りにいかないこと」に苛立つのかと言えば、背景には「自分の思い通りにできるはず」という前提が存在するわけです。
ですが、実際世の中に自分の思い通りになることが果たしてどれだけあるのでしょうか。自分自身だって思うように動かないもの。ましてや他者を、理屈の通じない子どもを、交通状況を思い通りにできるはずがないのです。今回の天候急変同様、本来はこうしたとき人は「しょうがねえやな」とそれを受け入れ、笑っていたのではないでしょうか。
3.諦めにくい時代
ですが、昨今は様々な情報が氾濫するようになったために人からその「諦め」を奪う時代となっているようにも思うのです。
例えば先述した天気について。天気は古来から人の思い通りにならないものであり、その日その日の天気に合わせて人が行動するのが当たり前でした。晴耕雨読です。
ところが現代では天気予報や衛星写真の情報が常に更新されており、以前ならば気付くことも出来なかったゲリラ豪雨でさえTwitter等の情報収集によって時には回避できるものとなっています。
結果、現代において人々は天気に対しての「諦め」を得るのが難しくなっている。雨に降られたときに「なんで天気予報を見てなかったんだ俺は」「天気予報と違うじゃないか」「注意報が出てた、気付いていれば」とifの可能性がちらついてしまう。「いや天気なんざわからんよ」とは言えなくなっている。
交通渋滞についてもそうです。今ではどの道が混んでいるのか、何分で着くのかをリアルタイムで探ることができるようになりました。結果「渋滞は工夫次第で回避できるもの」となってしまい、あり得なかったifにいらだつわけです。「あっちの道の方が空いていたのではないか」「下道をいけばよかったのでは」と。
無論そうした苛立ちは昔からあったのでしょうが、現代の難点はそのifをリアルタイムに感じることができてしまうわけです。昔であれば「いやでもあっちも混んでたはずだ」「下でいっても変わらなかったはずだ」と諦めがついたはずのものを現代では即時確認できてしまう。別の道を行った方が早かったということが、わかってしまう。結果、諦めがつかない。
対人関係もそうです。昨今は文学は売れず、ビジネス書が一番売れる時代となっていますが、その中身といえば「いかに自分を思い通りに動かすか」「いかに人を思い通りに動かすか」のノウハウと言えるわけでして。ここでは「諦めること」や「受け入れること」すら何かを思い通りに進めていくためのスキルとして掲げられてしまいます。
これは本来思い通りにならない世界に対し「どのように受け止めるべきか」を磨くことで対応していたかつての人のあり方とは逆に、「世界をなるべく思い通りに動かすための技術を磨くことで対応する時代」の到来を感じさせます。
こうした時代では、ありとあらゆる災難は本人のスキル不足、情報不足に帰することになりかねません。自己責任の時代の到来です。本来、天候も交通状況も対人関係も仕事の成功も、すべては思い通りになるものではなく、人はいい意味での諦めをもち、「しょうがねえやな」と笑顔で向き合うべきものであったはずなのに。そして結果、人はあらゆるものに対して「諦めが悪くなってしまった」のではないか。
そんなことを雨の中笑う人々を見て考えていたわけです。
4.最後に
自身を磨き、情報を収集し、自分の思うように生きていく。そんな姿はとても格好いいし憧れる部分もあります。
一方で、それが全ての人があるべき人のあり方なのか?と言われるとそれも違う気がするのです。
まだ私が熱血教員だったころ、職場にある嫌われ者の先生がいました。理屈っぽく、ひねくれ者で、自身の気分に理屈をつけて生徒を攻撃するような人でした。そのくせ女子には甘くちょっとあだ名で呼ばれるだけで二ヘラ二ヘラしてしまう。
そんな彼がぼそっと言った一言が「みんな自分がエライ時代になっちまったんだ」というものでした。
いや、あんたが言うなよと思ったのですが、何故かその言葉にはいつもの怒気や苛立ちよりも寂しさがこもっていたように感じ、印象に残っていたのです。そして今回のようなことに気付いてから、案外この言葉は今の時代を適格に表していたのかもしれないと思うようになりました。
本来人間は自分の思い通りに全てを動かすことは出来ない。出来ても本当に一部の、限られた運の良い人のみにそうした生き方が許されるものだった。
ところが現代では「そうした生き方を自分もできる」とどこかで皆が思っているような気がします。結果、それが出来ない自分が嫌いになったり、思い通りにいかないものに対して常に腹をたてている。自分も含めて憎しみの対象となるヘイトの時代。
… というわけできりがないのでまとめていきますが、今回の記事で伝えたかったのは以下のようなクエスチョンです。
①人は本来どうしようもない時には状況を受け入れ「笑う」ものだったのではないか?
②現代社会は情報の氾濫により、世界を「思い通りにすることができる」と勘違いさせるも のになっているのではないか?
③そうした社会の中で人は諦めが悪くなり、結果かつては受け入れて「笑う」ことができたものに「憎しみ」を持つ時代になってはいないか?
といったところが今回の内容の軸です。皆さんはどう思いますか。
私は熱血教員の頃はあまり笑うことがありませんでしたが、不祥事教員になってからはよく笑うようになった部分があります。当然精神的な波はあるため、落ちているときは「死にたいー」となることもありますが…。
今まで自分で何とかしなくてはと抱え込んでいたものを諦めざるを得なくなったがために、諦めがうまくなった面はあるのかもしれません。
なので、本日の考察があたっているのかどうかはさておき、私はもっと諦めのいい人間になっていきたいと思います。絶望と仲良くなるぞう。
では、またいずれ!
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